広告代理店の現場からみた読書案内

広告・マーケティング関連の書籍を、広告業務の一線で働いている立場から紹介・書評します。

カテゴリ: 広告・広告論

 著者の湯川氏は、時事通信社の編集委員で、広告・メディア関連の話題を積極的に発信されている方です。今の広告業界のキーワードの一つである「アドテクノロジー」と言う言葉を、私は湯川氏が数年前に主催したセミナーから知ったりしました。(その時のセミナーの内容がまとめられて「次世代広告テクノロジー」という題名で出版されています。)
 そういうこともあって、湯川氏の言動は普段から関心を持っているので、この本も期待を持って読み始めたのですが、読み終わった印象はというと... ちょっと微妙ですね。だいぶ違和感がありました。

 「広告」について、ネット領域だけでなく、オフラインを含む全体的な領域で関わっている人にとっては、きっと私と似たような違和感を感じたのではないかと思うのです。

1.この本はどんな本?

 まずこの本は、筆者がアメリカなどの取材に基づき「広告の近未来」のあり方を筆者なりにまとめた本、と言うことができると思います。結論的には「広告」の近未来のカタチは、私たちが今普通に「広告」と呼ぶものとはまったく異なるカタチのものになるだろうということが書いてあります。例えば以下のフレーズのように。

 「取材を終えて確信に至ったのは、『広く告知する』を意味する20世紀型の広告はいずれ消滅するということだった。」(P7) 

 そして、近未来的なカタチの「広告」の具体例として、「アドマーケットプレイス」「行動ターゲティング広告」「デジタルサイネージ」「モバイル広告」などについて紹介しています。本書の題名が「次世代広告プラットフォーム」なっているように、「広告配信システム」のようなものが次世代の「広告」だ、という主張をしているのだと思いました。

2.違和感の理由は?

 違和感を感じる大きな理由の一つは、その断言調にあるのですが、それは新聞記者の習いなのでしょうか? 無責任に煽っている感じがし、まずはその無責任さにちょっとカチンときます(失礼)。

 さて、「広く告知をする」という20世紀型の広告の限界は、既に多くの人が知っていることであり、ネット上では既に広告配信技術が進化して、よりパーソナルな広告提供が可能になっているのも、周知の事実です。ただ、だからと言って「広く告知をするタイプ」の広告が「消滅する」と言うのは、単純に言いすぎだと思います。そんなことを言う人に会ったことがないですし、そう考える根拠は何なのでしょうか? 著作中にも明確に示されている場所はないように思います。

 では何でそんな思考になってしまったのか? ちょっと思ったのが、筆者は「広告コンテンツ」と「広告メディア」をごちゃごちゃにしているからでは、ということでした。
 どういうことかというと、近年よく言われている「メディアニュートラル」という言葉と関係あります。
 メディアニュートラルの発想では、広告メッセージを最適な媒体(チャネル)を通じて消費者に届けるべきであり、その際、必ずしもマス広告を使う必要はないと考えます。これは別に変わったことを言っていないようですが、これまでの「広告」のあり方からするとかなり革新的な要素を含んでいるとも考えられます。
 考えてみるとこれまでの「広告」は、そのメッセージ(表現)とそれを乗せる媒体とを同一視してきたと言えます。テレビCMはテレビCM、新聞広告は新聞広告であり、テレビCMを「動画表現+テレビ媒体」、新聞広告を「平面表現+新聞紙面」と考える人は、まぁあまりいなかったと思います。
 ところが、メディアニュートラル発想では、広告コンテンツとメディアとを別々に考えます。別々に考えて、適切なメディアに適切な広告コンテンツを乗せていくわけです。そこではもはや「広告」とは呼べないような形のコミュニケーションもあり得るわけです。現実の企業コミュニケーションの主力は、今でも従来型のマス広告が多いのに変わりはないですが、多少なりともこれまでの広告のあり方に問題意識を持っている人は、今後はメディアニュートラル的な方向にどんどん進み、「広告」のカタチも変わっていかざるを得ないことを理解していると思います。

 とすると、上記の引用文に続いて書いてある筆者の以下の文章はどうでしょう?

 「企業から消費者に発するメッセージは、細かなターゲット層向けにいくつも用意され、受け手にとってよりパーソナライズされたものに変化していく。それは広告というより販売促進に近いコミュニケーションになり、クリエイティブよりテクノロジーが重要になるということだ。」(p7)

 こういう認識を見ると、筆者は先ほど「広告コンテンツ」と「広告メディア」を分けたうちの、「広告メディア」の部分しか言及していないように思います。

 他にも、この本では「技術革新の過渡期の推移」と題する、大きな円(中心)とそれを取り囲む外側の円(周縁)のモデル図を基に、技術革新は常に周縁から起きてきて中心を侵食するという紹介をしています。これを広告業界に当てはめて、中心の「マス広告」が、周縁であるアドテクノロジーに支えれられた「新しい形の広告」に侵食され、市場が縮小するという説明をしているのですが、ここで縮小するのはあくまで「広告メディア」でしょう。もちろんそれによって、既存の広告ビジネスが大きな影響を受けるのは間違いないですが、だからといって「広告コンテンツ」の必要性が弱まることの説明ができているとは思えません。
(ちなみに、「中心と周縁」という考え方は、かつて文化人類学を学んでいた私にとっては馴染みのある概念で、懐かしくなりました。関心のある人はコチラ参照)。

 それとも「広告コンテンツ」、すなわちクリエイティビティやアイデアの部分においてもテクノロジーの重要性が増し、人間の想像力や創造力が関与する領域が次第に減少してくると言いたいのでしょうか?

 あえて確信犯的に...? 
 それならば逆に筆者の革命家的指向性が読み取れてかえっていいのですが、そこまで確信性を持って語ってはいないような気がするのです。

3.クリエイティビティが不要?

 いや仮に、クリエイティビティの重要性が低下し、変わってテクノロジーの重要性が増すと筆者が本当に考えているとしましょう。

 実際にそういうことを言う人はいるものです。

 例えばWEB広告において、クリエイティブ自体は素人が作るようなものでよく、それをたくさんの種類作り、実際に露出させてみてレスポンスの高いものだけを残していけば、それが優れたクリエイティブとなる、という考え方です。
 これは「興味に対して露出させるタイプの広告」、つまり検索連動型広告やコンテンツマッチ型の広告などでは効率を上げる手法として成立つかもしれません。しかしこの方法が、現実の広告主のニーズに応えきれるかというとそうではないでしょう。新製品告知などニュース性が必要なタイプのコミュニケーション課題には適しているとはいえませんから。つまり現状のコミュニケーションビジネスにおける「クリエイティブ」の機能を補完するものであっても、代替できるものではないのです。

 一方で、次世代広告におけるクリエイティビティに関して、次のような意見もあります。

 例えば最近行われたデジタルアドの祭典、AD Tech NYで語られた、デジタル時代でもクリエイティブアイデアが重要だ、との記事を、あの「テレビCM崩壊」の訳者である織田浩一氏が伝えています。

 また、その前に行われたロンドンのAD Techの紹介記事では、ロンドンの広告業界の話として、次のようなコメントが載せられています。曰く、「メディアやメーカーなどのマーケッターの間では、テクノロジはあくまで戦略要素でしかないという認識が形成されている」。

 むしろ、デジタル先進国のアメリカ、イギリスなどでも「戦略性の高いクリエイティブ」というものの重要性が認識・共有されているということなのではないでしょうか?

4.電通vsGoogleの方が見たかった!

 ロンドンと言えば、前々回紹介した「コミュニケーションデザインをするための本」の冒頭の「刊行によせて」で電通の杉山恒太郎氏が、「コミュニケーションデザイン」という言葉はロンドンから学んだ、という趣旨のことを書いています。

 電通は今年7月の組織改変で、その杉山氏を責任者とする「コミュニケーションデザインセンター」という名称の、トータルプランニングを行う戦略性の高いセクションを作りました。これはひょっとすると、デジタルの時代でありながら、デジタルを道具として使いこなし、むしろクリエイティビティを重視するといった、ロンドンの広告業界のエッセンスのようなものにヒントを受けているのかも知れません。

 そこでこの本に戻りますが、この本を執筆するきっかけとなる次のようなせぴソードが紹介されています。

 「この本を書くにあたり、『広告の未来はどうなるのか』という観点で取材を始めた(中略)。ある程度の情報が集まり『電通vs.Google』という構図で原稿を書き始めたときのことだ。取材に訪れた渋谷の某ビルのエレベーターに乗っていたら途中階で扉が開き、高広伯彦滋賀乗り込んできた。(中略)一緒にエレベーターに乗っているわずか数十秒。その間に交わしたひと言ふた言が、取材の方向性を大きく変えてしまうことになる。『高広さん、今度の本の話だけど、電通vs.Googleという図式で書こうかなと思ってるんだ』『いや、今起こっていることは、そういうことじゃないんです。そんな話じゃないんですよ。どこかが覇権を握るかというレベルの話じゃないんです』 それだけだった。それだけ言って高広氏はエレベーターを降りていった。」(p206)

 ということがあって、当初の予定「電通vs.Google」ではなくて、本書の内容になったということらしいのです。でもそんなことでひよったりしないで、是非当初の予定通り「電通vs.Google」を書いて欲しかった、と思います。

 もちろんどこが覇権を握るか(←これもあきらかに広告メディア発想ですね)などというのはどうでもよくて、「テクノロジーの権化Google」vs.「デジタルにも手を打ちつつ、あえてクリエイティブで勝負を掛けてきた(かもしれない)、電通」という図式なら、今だったらば非常に面白いテーマなのではないかと思います。
最近のGoogleは、ストリートビューやグーグルマップでの個人情報流出問題など、テクノロジー万能主義が度を過ぎて、便利な反面人々に不安を投げかけるということが起きています。著作権関連の問題なども、欧州では解決していません。テクノロジーも進化すればよいのではなくて、社会との共存が必要なのは当然ですよね。そうした限界に少しぶつかりつつあるGoogleと、あえて人間臭い「クリエイティビティ」で再度勝負をかけてきた(ように見える)電通ということでは、まさに広告業界の未来を占う取材ができるのではいかと思うのです。

5.長くなってしまいました

 軽く書くつもりで思わず長くなってしまいました。
 
 別に著者を攻撃するつもりは毛頭ありません。また本書の「おわりに」で筆者はこういうことも書いていますが、

 「最後に『クリエイティブの重要性は低下する』という私の主張に気分を害された広告業界関係者にお詫びしたい。(中略)広告のプロの方々の誇りを傷つけてしまったとしたら、やはり心苦しい。『部外者のお前に何がわかるものか』と気分を害された方もいらっしゃるだろう。」
(p210)

 別に気分を害されてもいないし、誇りを傷つけられているとも思いません。

 筆者のような考え方は面白いと思いますし、いろいろな角度から広告業界の将来を考えることは有益だと思います。

 その意味では、このブログを奇特にも最後まで読んでしまったみなさんも、一人ひとりが、自分の立場で広告の将来について考えて欲しいと思います。何を言っても広告業界が大きな変革期にあるのは間違いないのですから。

 この本もみなさんなりの批判的視点を持って、是非読み込んでみてください。


☆湯川鶴章「次世代マーケティグプラットフォーム」(2008年)ソフトバンククリエイティブ
次世代マーケティングプラットフォーム 広告とマスメディアの地位を奪うもの

 「グーグルに勝つ広告モデル」とは勇ましいタイトルです。広告ビジネスが伸び悩む今日において、唯一の「勝ち組」と言っていい「Google」を苦々しく思う人も少なくないでしょう。だからこのタイトルを見て思わず本を買ってしまった人も多いと思います。
 
 実は私もその口なのですが(笑)、ちょっと残念なことに、この本は「グーグルへの勝ち方」を述べた本ではありませんでした。今日のメディア環境変化の中で「負け組」に分類される(と言える)「マスメディア」の延命策を述べたものです。その意味では、少々「看板(タイトル)に偽りあり」なのですが、「延命策」以外のところで、意外に面白い論考がありましたので紹介したいと思います。

1.アテンション対インタレスト
 まず、とても鋭い! と思ったのが、マス広告とグーグル広告モデルの違いの指摘。 

 「テレビ、新聞、雑誌、ラジオの4マスメディアのビジネスモデルの本質は、大衆の注目の卸売りです。英語でいうアテンションを集めて卸売りしている、アテンション・エコノミー。これが20世紀型マスメディアの本質です。
 一方、近年騒がれている21世紀型メディアとしてのグーグルが依拠する経済は、インタレスト(能動的な興味・関心)です。グーグルはアテンションではなく、インタレストの卸売りをするビジネスモデルです。」(p11-12)


 この後筆者が説明しているのですが、AIDMA(AISASでも良いが)のようなアテンション→インタレストに移行する広告効果モデルを考えれば、アテンションをターゲットにするより、インタレストを直接ターゲットにしている方が、広告効果の効率性が高くなり、広告単価も高く設定できます。Googleの強みはそこにあると言うのです。さらにYahoo!にも触れていて、Yahoo!はバナー広告に依存しているからマス広告同様、20世紀のアテンション・エコノミーモデルに分類できるのだそうです。

 なるほど、広告手法をこういう視点で理解するのは斬新ですね。もちろん、異論のある人もいるかと思いますが、なぜマス広告が限界を迎え(→人が使える時間量が変わらないのに、世の中の情報量が膨大になりすぎ、アテンションの獲得効率が低下してきたから、が答え)、グーグルが儲かっているのかを大まかに考える上で、こうした単純化した分類は役に立つと思いました。

2.コンテンツビジネスは、未来に行けば行くほど厳しい戦いを強いられる

 これも面白い視点です。コンテンツビジネスは、将来は現在よりも必ず厳しい戦いを強いられる宿命にあると言うのです。
 
 「テレビを含めたメディア/コンテンツ産業が、他の産業と異なる点の一つとして『過去のストックが競合になる』という点が挙げられます。(中略)ストックは時間の経過にともない、いずれ無限大まで増加します。(中略)加えて、名作とか傑作は一定の出現率に基づき生まれてきますから、時間がたてばたつほど過去のストック価値が増大していきます。つまり、常に『現代のコンテンツ』が歴史上どの時点と比較しても、より厳しい戦いを強いられるということになります。」(p16-17)

 そしてこの傾向は、近頃のインターネットによる、モノ(コンテンツ)と情報(コンテンツのメタデータ)が分離することにより、探索コストが劇的に低下し、欲しいコンテンツがいつでも入手可能になることによって、加速されているというのです。確かに、アニメや漫画産業の近頃の勢いの衰えも、こうしたことと関係があるのかもしれません。
 これはコンテンツビジネスに携わる人にとってはかなり暗い話だと思いますが。

 というような鮮やかな分析が冒頭の方にあり、すごく期待が高まったのですが、最初に述べた通り、本書の大半はマスメディアの延命策が延々と述べられている内容でした。そのテーマに関心のある人なら参考になったのかもしれませんが、私はその内容自体についても、新鮮味が薄かったり、実現可能性という点で?の話が少なくなく感じたので、あまり興味を持てませんでした。

(*)上記で「延命策」と書いたのですが適切ではありませんね。別にマスメディアは「絶命」するようなものではありませんから。ビジネスを取り巻く環境が変わってきて、収益効率が悪くなってきているというのが問題点であり、著者はそれへの対応策を書いているというのが正しい説明です。「延命策」ではなくて、「生き残り策」ですかね?(同じか...)

グーグルに勝つ広告モデル (光文社新書 349)



 話は変わりますが、今年もカンヌ国際広告祭が終わりました。ご存知のように日本からはユニクロの「UNIQLOCK」がサイバーとチタニウムでグランプリを取りました。関係者に敬意を表しまして、私のブログにも貼り付けさせてもらいました(笑)。カンヌでは今回のユニクロだけでなく、ここ数年インターネットを活用した新しい広告キャンペーンの領域で、日本の作品がコンスタントに賞を取っています。この領域での、日本の企画力の高さを改めて感じ、なかなか日本も捨てたものではないなと思いました。


 
 一方で、フィルム部門のグランプリは2つあるそうで、そのうちの一つがこのゴリラのCM。イギリスキャドベリーのチョコレートの広告なのですが、正直私は何が“よい”のか分かりません。音楽を入れ替えたリミックスバージョンが多数消費者によって作られているようで(つまりUGC=勝手広告?)、そこも含めての表彰なのでしょうか?
 どなたか分かる方がいたら教えてください!



 話題の本です。今Googleで検索したら、268,000件(!)も出てきました(2006年9月10日現在)。ひょっとして発行部数より多いのではないでしょうか??

 それだけこのテーマ、つまり、マス広告批判や新しいマーケティングコミュニケーションの方法について関心が高い、ということなのだと思います。

 これだけみんなが読んでいる本となると、ここで特に書評する必要もなさそうですね...。内容については、とても“正しい”議論をしていると思います。アメリカの話ではありますが、日本にも当てはまる話です。現状の問題点の指摘はその通りだと思いますし、消費者の認識についても指摘の通りだと思います。
 強いて言えば、これらの議論は広告業界に身を置いて現状に危機感を持っている人なら誰でも共有している、特に新しくはない議論だとは思いますが。

 とはいえ、それを手際よく整理してのは筆者の力量です。正直言って、最初の方を読んでいたときには、当たり前に言われていることを大げさに語っているだけだし、説教臭くて気に入りませんでした。しかし、後半部分、「10のアプローチ」と題された、これからのマーケティングコミュニケーション方法を語っている部分に来たら、ポイントがとてもよくまとまっており、それなりによくできた本だ、という印象に変わりました。

 テレビCMの問題や新しいコミュニケーションの方法論などの問題に関心のある人ならば、頭が整理できますし、あまりよく知らなかった人ならば、啓発される本だと思います。
 誰が読んでもためになる本だと思います。

 それに筆者のこんなたとえ話も面白いですしね。

 「テレビCMが、その全盛期には時代の寵児であったことは間違いない。しかし、登場から65年を過ぎた今、それはまるでショーン・コネリーだ。つまり、今でもセクシーだが、これからの展望はあまりないということだ。」(p264)

 ワハハ。うまい!座布団一枚、というところですね。

 ところで、そういうことを前提にして、このブログ、書評を専門にやっているものですから、他の人とは違う視点で、批判的な話をしたいとも思います。それは著者へではなく、こうした本をありがたがる風潮に対してです。

1.広告に関心のある多くの読者に親切か?

 例えば、この本のカバーにこんな文句が書いてあります。

 「テレビCMは、質、信憑性、効果のどれをとっても最低だ。さらに最悪なのは、肝心の消費者が広告の何もかもをまったく気にしていないことである。」(カバーより)

 日本の話で言えば、現在のテレビCMビジネスで不合理なところ、おかしいところはたくさんあります。だから、それを批判することは正しい姿勢だと思うし、多くの広告主のためにもなることです。しかし、それが単なるアジテーションだったらどうでしょう? テレビCMを巡る本質的な問題点が隠蔽され、広告ビジネス全体にとっても何のメリットも与えません。
 この本はアメリカの話だから日本に単純に置き換えられないし、それをしようとすると誤解が生じて危険だと思うのですが、訳者・編集者はあえてそれをやろうとしているようです(訳者前書きにもその旨が書いてあります)。例えば、このブログでしばしば言及している邦訳書と原著タイトルとの意味の相違問題ですが、この本でも意図的に変更されています。原著は“Life After the 30-Second Spot”であり、テレビCMの問題点の指摘より、新しい広告コミュニケーションの方法論について主眼を置いているように感じられます。

 アジテーションも過ぎると、無責任と紙一重です。内容を鵜呑みにすることなく自分なりに消化できる人でなければ、この本のメッセージを正しく理解することができないような気がします。その意味では読み手の力量が問われますが、それは一方で、本として不親切だということも意味すると思うのです。

 知識や経験のない若者をミスリードしかねない、取り扱い危険な本にあえてしてしまった訳者・編集者の姿勢は疑問です。

2.新しい手法はショーン・コネリーを超えているのか?

 筆者は、これまでのマス広告の手法に変わる手段として、「10の新しいアプローチ」を提案しています。それは「インターネット」「ゲーム」「オンデマンド視聴」「体験型マーケティング」「長編コンテンツ」「コミュニケティ・マーケティング」「消費者作成コンテンツ」「検索」「Mで始まるマーケティングツール」「ブランデット・エンターテイメント」の10です。

 こんな言葉と共に紹介しています。

 「ここからは、テレビCMに代わる10の新しいアプローチを紹介したい。」(p112)

 こう言うと、上の例えではないですが、老いたショーン・コネリーに代わる主役級の役者が続々が登場している感じがします。
 しかし、実務に携わっている人ならすぐわかることですが、せいぜいインターネット、検索広告以外は、広告コミュニケーションの手段としては、まだまだ大部屋住まいの役者です。もちろん将来はあると思います。しかし、確実な未来はまったく約束されていないというのが現状だと思います。
 大部屋役者をショーン・コネリーに代わる役者として紹介するのですから、これも一種のミスリーディングではないでしょうか。

3.大切なのは手法なのか?

 さて、ここが一番言いたい点ですが、テレビCMの批判を始めると、クチコミをやろうとかバズを引き起こすのがいいとかライブマーケティングだとか、いつも「手法」の話に落ちていきます。この本のように、テレビCMは崩壊したから、インターネットなどの新しい手法をどんどん取り入れよう、という議論です。

 この議論は、何か大切なものを見落としているといつも思うのです。消費者から見れば、何となくテレビCM見なくなったなぁと思っていても、テレビCMの情報はもはや信頼できないと思っている人はほとんどいないと思います。つまり普通の人にとって、この本の議論は自分の生活に何の関係もないことです。要は、広告される商品・サービスが自分にとってどうなのかということだけが大切なのであって、それがテレビCMからの情報だろうが、ブログの情報だろうが、関係ないと思うのです。せいぜいその商品に関心を持ったときに、より詳しい情報にアクセスできるようであれば十分ではないのでしょうか。ということは、やはりとんなに環境が変化しても、基本に立ち返って消費者が望むような商品を市場に投入するのが企業の役割になると思うし、その際の広告の手法が何だというのに過度に気を取られるのは本末転倒だと思うのですよね。
 だから、この手の「手法」の議論を多くの人が面白がるのは何か不健全ですね。いい商品でなければ、どんなに頑張ったってそもそもクチコミなんか広がるわけがないのだから、いい商品を開発するなど、もっと大事なことに目を向けた方がずっと健全だと思います。
 つまりショーン・コネリーが演じようが、大部屋住まいの無名俳優が演じようが、大切なのは、ストーリーや演じられたものそのものではないか、ということです。

 もっとも、日本の民放も「コマーサル君のCM」なんていうくだらないお金の使い方しているから、CMの崩壊と言って面白がったりする変な風潮が広がってしまうのでしょうけどね。

☆Joseph Jaffe著、織田浩一監修、西脇千賀子、水野さより訳「テレビCMの崩壊」(2006年)翔泳社

テレビCM崩壊 マス広告の終焉と動き始めたマーケティング2.0

 約1ヵ月ぶりの更新となってしまいました。仕事の方が忙しく、帰りが遅い上に家に持ち帰って仕事をするような時期がしばらく続いたので、さぼってしまいました。
 定期的に訪問されていた方、申し訳ありません。

 さて、今回はGoogleのビジネスの話です。これを読んでる人でGoogleを知らない人はいないと思いますが、Googleのビジネスについては知らない人は少なくないと思います。
 Googleは何で儲けているのか? 
 ちょっと前までは実は、私もよく知りませんでした。

 例えば同じ検索エンジンでもYahoo!ならばポータルサイトだし、バナー広告もあるし、Yahoo!オークションなどに参加するにも手数料をとられたりするので、そういう部分がビジネスになっているのだろうなと想像できるわけです。Googleはバナー広告もないし、検索すると確かに画面の横とか上にスポンサー表示がでるので、この部分が広告になっているのだろうとはわかるのですが、そんなので儲かるのか?と思ってしまうわけです。
 しかし米国でナスダックに上場しているGoogleの時価総額は1100億ドル(3月現在...12兆円以上!)にも達し、インテルやIBMと肩を並べるといいます。つまりGoogleは安定的に収益を上げ、将来もっと伸びる会社として高く評されているわけです。

 その"儲け"の秘密は...知っている方は知っての通り「広告」であるわけです。それも主力は検索と同時に画面の上や横に表示されるあれで、「リスティング広告」と呼ばれるものです。
 まあ、検索と同時に表示されるので検索連動型広告とも呼ばれるわけですが、これは実はアメリカでは既にオンライン広告の40%(市場規模自体は昨年で1兆円を超えている)を占め、年率20%以上の成長しているめるネット広告の主力分野となっているものでもあります。日本ではアメリカほどではありませんが、インターネット広告市場2,700億円のうち590億円(約22%)を占めているとされており(電通総研推定)、やはりインターネット広告の中でも成長分野です。
 リスティング広告の仕組みは簡単。表示されるキーワードがクリックされるに応じて広告主に課金される仕組みで、クリック1回あたりの単価も一般的に低額です(Googleのリスティング広告サービス"Adwords"の場合最低1円から)。つまり、広告主にとってはクリックにより自社のサイトに誘引するという確実な効果のある広告活動を低価格(低リスク)でできるという非常に大きいメリットがある、という仕組みなわけです。
 こうした新しい広告サービスは、次の動きにつながります。それはこれまで広告費の絶対額が高かったために広告活動ができなかった多くの中小の企業が、新たな広告主として広告活動を始めることができることです。特にECサイトでビジネスをしようとする広告主にはこの仕組みは福音だといえます。
 ただしGoogle側にとっても、一回のクリックによる収入は場合によっては数円ということもあります。非常に小さい単位の広告費を集めて運営しなければなりません。ところが新しく参加するようになった多くの広告主と、世界中で一日何億回と検索される検索機会を通じて、その数円単位の広告費がつもりにつもり、実際には巨額の収益があがる構造になっているわけです(こうした小額の広告費を集めることにより成立つ広告ビジネスモデルをロングテール広告などという言い方をすることがあります)。しかもリスティング広告は巨大なシステムを必要とする装置産業であり、売上げは検索エンジン自体の人気度に比例しますから、参入障壁は意外と高く、世界で検索シェアの過半を占めているGoogleにとっては新しい市場を一人勝ち的に獲得することができるというわけです(ただし、日本ではGoogleよりYahoo!の方が検索エンジンとして使われているため、Yahoo!にリスティング広告サービスを提供しているオーバーチュアも有力です)。アメリカで投資先としてGoogleの将来性が評価されるのもうなづけるわけです
 なおGoogleでは検索連動型広告の他に、コンテンツ連動型広告という、いろいろなWEBサイトやブログなどに「Ads by Google」と表示される広告も提供しています。これはWEBサイトやブログなどの記事内容と連動して、関連した広告が自動的に配信される、という仕組みです(今のところはあまり精度が良くないと聞いていますが...)。

 まとめると、検索エンジンの成長とともにリスティング広告という新しい広告マーケットも急成長しており、日本でも世界でもその主要プレーヤーがGoogleである、ということなのです。
 広告ビジネスに関するこのような動きは広告会社にとっては非常に興味深いものなのです。

 というわけで、広告ビジネスの新領域を開拓する企業としてGoogleに興味を持った私が、今回手にしたのが「ザ・サーチ」という本でした。この本はGoogleの創生期から今日までを関係者のインタビューなどに基づいて構成したノンフィクションです。スタンフォード大学でコンピューターサイエンスを学ぶ学生だったラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンの2人の若者が、何を考えどういう経緯でGoogleという会社を興していったのか、そしてどこへ向かおうとしているのか、課題は何なのか、というようなことが、インターネット検索の歴史とともに書かれています。

 例えば、Google以前の検索サービスの勃興と衰退、「ページランク」というユーザーの有用性基準に基づく検索結果の表示、収益モデル開発への苦闘、リスティング広告導入、ナスダック上場など、Googleが巨大企業に成長していく上でトピックとなった出来事などが紹介され、なるほどこういうピンチ(チャンス)をこう考えて乗り切ってきたのか、ということが分かり興味深いものです。

 この本を読んで私のGoogleの印象は変わりました。ある部分ではポジティブに、またある部分ではネガティブにです。

 例えば、Googleのグーグル上場時のこんなエピソードがあったそうです。

 「2004年4月29日、グーグルは証券取引委員会に新規株式公開の申請書S1を正式に提出したが、それは近来にない内容で、売却株数は2,718,281,828ドル相当だった。この額は一見口からでまかせの数字に思えるが、これはパイと同じようなeの概念(自然対数の底)で、数学マニアによく知られている。この新規株式公開にあたって、専門馬鹿にしかわからないユーモアをふりまくことで、実はグーグルはギーグが管理していることを宣言したかったにちかいない。」(p318)

 このエピソードに象徴されるのですが、Googleは、何か、世の中、例えば政府とか銀行とか産業社会とかエスタブリッシュメントに対して反旗を翻している、という感じが全編を通じて感じられました。「俺たちはお前らの作ったルールには従わないよ!」「ルールは私たちが作る(Web2.0的な言い方をすると利用者が作る、ということになるのでしょうか)」と言いたいかのようです。
 もともとビジネスを起こそう(つまりお金儲けをしよう)という意志からではなく、いいものを作ろう、役に立つものを作ろうという強烈な研究開発への問題意識から会社を起こした部分があるようなので、こうした社風のようなものが出来上がっているのでしょう。実際これまでにも検索領域を中心にして、画期的なサービスを次々に作ってきているわけです。Googleの、信念を持って信じる道を突き進む姿はある種清々しく、こういうのは私は嫌いではありません。

 しかしこうした既存社会に対する挑戦的な姿勢には一方では危うさを感じるのも確かです。
 例えば本の後半では、リスティング広告で入札されるキーワードの商標権に関する問題が触れられています。現状リスティング広告では誰でもどんなキーワードでも入札することができるわけですが、これでは有名ブランド名を全く関係ない会社が購入して広告するようなこともできてしまうわけです。これは、商標権の保護という観点から、いかがなものか? というのが問題点です。
 この問題に関しては既にいくつか訴訟が起きています。アメリカ国内では今のところGoogleに不利な判決が出てはいないようですが、フランスではルイ・ヴィトンなどが訴訟を起こしGoogle側が敗訴しています。この件ではGoogleが"Louis Vuitton"のような商標を第3者(例えば偽造品販売のECサイト)に販売することに制限が加えられ、罰金の支払いも命ぜられました。
 また、クリック詐欺の問題も触れられています。クリック詐欺はコンテンツ連動型広告"Adsense"の仕組みにとっては深刻な問題です。AdsenseではGoogleから個人のブログなどに自動的に広告が配信されますが、そこで掲出された広告はクリックされるごとにわずかばかりの広告掲載料がそのブログサイトにも支払われる構造になっています。この場合、話を単純化して言うとその広告掲載料を取得するため自分のサイトの広告を自らクリックするような詐欺行為が起きる可能性があるということです。もちろんこんな単純なケースはすぐ見つかり広告配信がストップされるとは思いますが、ネットにおける不正技術はいたちごっこの面があるため、不正を行うものが技術を動員した場合には対応にも限界があります。

 「詐欺師はロボットを利用するか、インドや東欧の低賃金労働者を使って、自分とグーグル以外のものは削除し、集中的にクリックする。こうして不注意な広告主はその費用を払うことになる。クリック詐欺はペイドサーチが始まった時から存在し、1990年終わり頃には、ゴートゥー・ドットコム(引用者注:リスティング広告手法を開発した会社で、オーバーチュアの前身)がこの問題に悩まされていた。当時の検索エンジンは詐欺行為の発信元を発見するや、ただちにアカウントを取り消せばすんだが、グーグルのアドセンスは流通範囲が広く、何十万という発信元に対応しなければならず、新たな詐欺の機先を制するのはほとんど不可能に近かった。多くの広告主は、広告予算の25〜30パーセントをクリック詐欺にかすめ取られているという(注:太字は引用者)。」(p275)

 深刻です。

 これらの問題はGoogle1社だけの問題ではなく、リスティング広告というビジネスモデル全体の問題ではあります。しかしGoogleがそこでの主要プレーヤーであり、広告主に対してはこれら負の問題にも応える義務があります。新しいものには負の面がつきものですが、ビジネスをしていく上では、こうした面では「自分がルールを作る」という姿勢は許されるものではないはずく、Googleの存在感が意図せずともどんどん大きくなって来れば来るほど、既存社会のルールや社会の公正さに自らを馴染ませる努力を不断にしていかないといけない、というのも事実でしょう。
 
 「広告」というものに限ってみても、Googleのモデルが新しいあり方を持ち込んだのは間違いありません。最近の論調(例えばWEB2.0的な論調)の中では、新しさや良いところばかり強調する人が多いようにも感じます。しかし、この本を読むとGoogle、あるいはGoogleを中心に開かれていっている、検索をコアにしたビジネスの光の面と陰の面の両方を見ることができます。
 インターネットでのビジネスのこれからのあり方を考えたい人にはお勧めです。

☆ジョン・バッテル、中谷和男訳「ザ・サーチ」(2005年)日経BP
ザ・サーチ グーグルが世界を変えた

 この本は、2005年3月に出版され、以前ここでも紹介した「ひとつ上のプレゼン。」という本の続編に当たります。20人の広告・建築業界で活躍するクリエイター・建築家が登場し、自らの「アイディアの生み出し方」について語っています。

 「アイディア」というのは、広告会社の生命線のようによく言われます。つまり広告会社がクライアントにお買い上げ頂くものの本質はアイディアであって、広告制作物自体ではない、ということです(アイディアのない広告はただの動画や“紙”に過ぎません)。それだけに我々の毎日の仕事それ自体が、新しいアイディアを考え、生み出し、持ち寄り、形にして、という作業の繰り返しであると言っても過言ではありません。
 広告の仕事の中では「アイディアを生み出す」ということが仕事の本質であるわけです。

 その意味で、優れたクリエイターの「アイディアの生み出し方」を集めたこの本は興味深いわけです。他人の方法をただ読んだぐらいで、自分の身につくということはないかもしれません。しかし、著名なクリエイターが著名であるゆえんは、優れたアイディアを生み出し続けてきたということだと思いますし、アイディアを商売とする我々にとって参考にならないはずがありません。この本から、自分と似たタイプの思考をするクリエイターを発見して、その人の制作物をちょっと注意して見てみる、という使い方もできると思いますし、何人かの人の方法を比較することで自分なりに共通点を発見したり、自分の持っている考え方を相対化したりすることもできると思います。
 前に出版された「ひとつ上のプレゼン。」もそうでしたが、私は自分の仕事に活かせるヒントがたくさんちりばめられていると思います。
 これだけ粒揃いのクリエイターが同じテーマで話をするということはなかなかないわけですから、広告の仕事に携わっている人、あるいは「アイディア」に関心のある人には一読をお勧めします。

 さて、ここでは「ひとつ上のプレゼン。」を紹介した時同様、私の印象に残った、偉大な先達たちの金言(?)をいくつかピックアップしたいと思います。

・佐藤可士和氏(サムライ)
 「広告はほとんど見られていない。ぼくはそう思っています。大げさに言えば、誰にも見られていない。そういう前提で広告を作っています。(中略)よほどのことをしなければ、人は注目などしないと考えています。ただ目立つだけでも難しい。ましてや正確に何かを伝達することなど、実はできないのではないかと思うぐらいです。だから、感性のハードルをずっと下げてみて、何とか伝えようと努力するわけです。」(p31)
 「こういうマインドで、ポスターやCM、ロゴマーク、パッケージなどをつくっているのですが、でも制作物はあくまでインターフェースです。実際に作るのは、それを見たあとの感触だと思っています。びっくりした、かわいい、面白い、かっこいいと感じたりする、その感触をクリエイトするわけです。(p31)
 
 
 佐藤氏は、新進気鋭のクリエイターとして最近よく名前を聞きます。ホンダステップワゴンやキリン「極生」の新発売時の広告を制作された方ですね。私は「広告は見られていない、そこでどうするか?」という問題意識と、「広告はそれに接した後の受け手の気持ち(感情等々)を作るのだ」という視点に深く共感します。

・多田琢氏(タグボート)
 「だいたいいつも、扱う商品について『自分にとって理想的なCMをいま見た』と仮定することから始めます。それを見た自分はどういう感覚になって、どういう気持ちになるのか。その点だけをまず思い浮かべてみる。それからその後味を味わうためには、どういうCMを見なければいけないのかを考えます。それは映像に重点を置いたものなのか。ストーリーを重視したものなのか。それともメッセージ性の強いものなのか、と。」(p41) 

 多田氏というと、感覚的・感性的なCMを作る方、という印象を私は持っていたのですが、上記のコメントなどを見ると、感覚的ではありますが、実はとてもロジカルな発想法をされているのだなと思いました。広告を見た後の受け手を考える視点という意味では、佐藤氏と通じるところがありますね。

・岡康道氏(タグボート)
 「ぼくがいつもやっているのは頭のなかにあるサイコロの6つの面を埋めることです。例えば、以前つくった化粧品『UVカット』の広告を考えたときには、サイコロの最初の1面には、その商品そのものである『UVカット』という言葉を入れました。そして、それを転がした次の面には、少し噛み砕いた『夏、肌が日に焼けない』という言葉。さらにひとつ転がした3つめの面には、少しだけひねって『だから、海に行ったことが誰にもわからない』と書く。その調子で思考を発展させて、4つめの面には『アリバイ』と。5つめの面には『夏、女の子が誰かと海に行っても他人にわからない』。そして最後の面には、『夏、女の子が男をだますためのツール』と入れる。『UVカット』という商品から、『夏、女の子が男をだますためのツール』という最終アイディアを、一足飛びに連想するのは難しいでしょうが、こうしてサイコロの6つの面を埋めるようにしながら、順々にアイディアを転がしていけば、たどりつくことができるわけです。」(p138)
 「自分なりにロジカルに展開しているがゆえに、スタートからゴールまでの思考の道筋はよく見えています。プロセスがはっきりしているということは、他人にも説明がしやすいということでもある。つまり、クライアントへのプレゼンがしやすいというメリットがあります。」(p139)
 

 面白い! これはいいです! 連想ゲームみたいですね。このセオリーなら私でも面白いアイディアを生み出せそうだし、よいプレゼンもできそうです(笑)。
 それにしても多田氏にしても岡氏にしても発想がロジカル(つまり一種の理詰め)ですね。意外とタグボートは、ロジカルクリエイター集団なのでしょうか?

・柴田常文氏(博報堂C&D)
 「アイディアとえば、必ず『どこでひらめくのですか?』とたずねられます。でも、実際のところは、『ひらめく』ものではないというのがぼくの実感です」(p161) 

 柴田氏は続けて、アイディアを生み出すためには、オリエンテーションの情報や市場データ、競合の動向、そしてそれだけでなく一人の生活者としての自分の皮膚感覚のようなものも大切にして商品の抱える問題点を見つけ出す、ということが必要だと述べています。

・杉山恒太郎氏(電通)
 「アイディアは確かに直感から生まれるものですが、いつまでもただじっとと浮かぶのを待っていればいいというものではありません。(中略)テーマを相当ロジカルに追い詰めて、追い詰めた先にロジックを超えて生まれてくるものです。ノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊さんは、とにかく毎日、勉強しろとおっしゃっています。コツコツと、とにかく勉強しろ。勉強して勉強して、そして直感を磨くんだ! と一見矛盾したことを言っているようですが、これにつきます。ぼくはこの小柴さんの言葉は、アイディアの本質をとらえていると思います。」(p201)

 いい言葉ですね〜。「勉強して、勉強して、直感を磨け!」。座右の銘にしたいくらいです。本当に「アイディアを生み出す」ことの本質を突いているような気がします。


 まあ、全体的に見ますと共通している意見が2つくらいありそうです。

 一つは、アイディアは無から生まれることはなくて、商品や企業の課題、あるいはクライアントの問題意識の中にアイディアを生み出すヒントが必ずあるということ。そして、もう一つはアイディアは直感的かもしれないけれど、ロジカルに考えて生み出すものである、ということです。

 なるほどな、という感じです。

 あと、最後にアイディアについてこんな意見もありました。社会に対するコミュニケーション活動を実施している我々の立場からすると当然のことですが、受ければ何でも良いと安易に考えているような人もたまにいたりするので、困りますね。
 クライアントの商品に対する責任を背負っている広告は、バラエティ番組とは違うのですから。
 
 ・大島征夫氏(dof)
 「視点がユニークであれば何をやってもいいと思っている人がいるが、その考えには同意できない。ぼくはアイディアや企画は、ある程度、社会的な責任を負うべきだと考えている。人を貶め、心を傷つけるようなアイディアや企画ならば、やらないほうがいい。」(p25) 

☆眞木準編「ひとつ上のアイディア。」(2005年)インプレス

ひとつ上のアイディア。

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