著者の湯川氏は、時事通信社の編集委員で、広告・メディア関連の話題を積極的に発信されている方です。今の広告業界のキーワードの一つである「アドテクノロジー」と言う言葉を、私は湯川氏が数年前に主催したセミナーから知ったりしました。(その時のセミナーの内容がまとめられて「次世代広告テクノロジー」という題名で出版されています。)
そういうこともあって、湯川氏の言動は普段から関心を持っているので、この本も期待を持って読み始めたのですが、読み終わった印象はというと... ちょっと微妙ですね。だいぶ違和感がありました。
「広告」について、ネット領域だけでなく、オフラインを含む全体的な領域で関わっている人にとっては、きっと私と似たような違和感を感じたのではないかと思うのです。
1.この本はどんな本?
まずこの本は、筆者がアメリカなどの取材に基づき「広告の近未来」のあり方を筆者なりにまとめた本、と言うことができると思います。結論的には「広告」の近未来のカタチは、私たちが今普通に「広告」と呼ぶものとはまったく異なるカタチのものになるだろうということが書いてあります。例えば以下のフレーズのように。
「取材を終えて確信に至ったのは、『広く告知する』を意味する20世紀型の広告はいずれ消滅するということだった。」(P7)
そして、近未来的なカタチの「広告」の具体例として、「アドマーケットプレイス」「行動ターゲティング広告」「デジタルサイネージ」「モバイル広告」などについて紹介しています。本書の題名が「次世代広告プラットフォーム」なっているように、「広告配信システム」のようなものが次世代の「広告」だ、という主張をしているのだと思いました。
2.違和感の理由は?
違和感を感じる大きな理由の一つは、その断言調にあるのですが、それは新聞記者の習いなのでしょうか? 無責任に煽っている感じがし、まずはその無責任さにちょっとカチンときます(失礼)。
さて、「広く告知をする」という20世紀型の広告の限界は、既に多くの人が知っていることであり、ネット上では既に広告配信技術が進化して、よりパーソナルな広告提供が可能になっているのも、周知の事実です。ただ、だからと言って「広く告知をするタイプ」の広告が「消滅する」と言うのは、単純に言いすぎだと思います。そんなことを言う人に会ったことがないですし、そう考える根拠は何なのでしょうか? 著作中にも明確に示されている場所はないように思います。
では何でそんな思考になってしまったのか? ちょっと思ったのが、筆者は「広告コンテンツ」と「広告メディア」をごちゃごちゃにしているからでは、ということでした。
どういうことかというと、近年よく言われている「メディアニュートラル」という言葉と関係あります。
メディアニュートラルの発想では、広告メッセージを最適な媒体(チャネル)を通じて消費者に届けるべきであり、その際、必ずしもマス広告を使う必要はないと考えます。これは別に変わったことを言っていないようですが、これまでの「広告」のあり方からするとかなり革新的な要素を含んでいるとも考えられます。
考えてみるとこれまでの「広告」は、そのメッセージ(表現)とそれを乗せる媒体とを同一視してきたと言えます。テレビCMはテレビCM、新聞広告は新聞広告であり、テレビCMを「動画表現+テレビ媒体」、新聞広告を「平面表現+新聞紙面」と考える人は、まぁあまりいなかったと思います。
ところが、メディアニュートラル発想では、広告コンテンツとメディアとを別々に考えます。別々に考えて、適切なメディアに適切な広告コンテンツを乗せていくわけです。そこではもはや「広告」とは呼べないような形のコミュニケーションもあり得るわけです。現実の企業コミュニケーションの主力は、今でも従来型のマス広告が多いのに変わりはないですが、多少なりともこれまでの広告のあり方に問題意識を持っている人は、今後はメディアニュートラル的な方向にどんどん進み、「広告」のカタチも変わっていかざるを得ないことを理解していると思います。
とすると、上記の引用文に続いて書いてある筆者の以下の文章はどうでしょう?
「企業から消費者に発するメッセージは、細かなターゲット層向けにいくつも用意され、受け手にとってよりパーソナライズされたものに変化していく。それは広告というより販売促進に近いコミュニケーションになり、クリエイティブよりテクノロジーが重要になるということだ。」(p7)
こういう認識を見ると、筆者は先ほど「広告コンテンツ」と「広告メディア」を分けたうちの、「広告メディア」の部分しか言及していないように思います。
他にも、この本では「技術革新の過渡期の推移」と題する、大きな円(中心)とそれを取り囲む外側の円(周縁)のモデル図を基に、技術革新は常に周縁から起きてきて中心を侵食するという紹介をしています。これを広告業界に当てはめて、中心の「マス広告」が、周縁であるアドテクノロジーに支えれられた「新しい形の広告」に侵食され、市場が縮小するという説明をしているのですが、ここで縮小するのはあくまで「広告メディア」でしょう。もちろんそれによって、既存の広告ビジネスが大きな影響を受けるのは間違いないですが、だからといって「広告コンテンツ」の必要性が弱まることの説明ができているとは思えません。
(ちなみに、「中心と周縁」という考え方は、かつて文化人類学を学んでいた私にとっては馴染みのある概念で、懐かしくなりました。関心のある人はコチラ参照)。
それとも「広告コンテンツ」、すなわちクリエイティビティやアイデアの部分においてもテクノロジーの重要性が増し、人間の想像力や創造力が関与する領域が次第に減少してくると言いたいのでしょうか?
あえて確信犯的に...?
それならば逆に筆者の革命家的指向性が読み取れてかえっていいのですが、そこまで確信性を持って語ってはいないような気がするのです。
3.クリエイティビティが不要?
いや仮に、クリエイティビティの重要性が低下し、変わってテクノロジーの重要性が増すと筆者が本当に考えているとしましょう。
実際にそういうことを言う人はいるものです。
例えばWEB広告において、クリエイティブ自体は素人が作るようなものでよく、それをたくさんの種類作り、実際に露出させてみてレスポンスの高いものだけを残していけば、それが優れたクリエイティブとなる、という考え方です。
これは「興味に対して露出させるタイプの広告」、つまり検索連動型広告やコンテンツマッチ型の広告などでは効率を上げる手法として成立つかもしれません。しかしこの方法が、現実の広告主のニーズに応えきれるかというとそうではないでしょう。新製品告知などニュース性が必要なタイプのコミュニケーション課題には適しているとはいえませんから。つまり現状のコミュニケーションビジネスにおける「クリエイティブ」の機能を補完するものであっても、代替できるものではないのです。
一方で、次世代広告におけるクリエイティビティに関して、次のような意見もあります。
例えば最近行われたデジタルアドの祭典、AD Tech NYで語られた、デジタル時代でもクリエイティブアイデアが重要だ、との記事を、あの「テレビCM崩壊」の訳者である織田浩一氏が伝えています。
また、その前に行われたロンドンのAD Techの紹介記事では、ロンドンの広告業界の話として、次のようなコメントが載せられています。曰く、「メディアやメーカーなどのマーケッターの間では、テクノロジはあくまで戦略要素でしかないという認識が形成されている」。
むしろ、デジタル先進国のアメリカ、イギリスなどでも「戦略性の高いクリエイティブ」というものの重要性が認識・共有されているということなのではないでしょうか?
4.電通vsGoogleの方が見たかった!
ロンドンと言えば、前々回紹介した「コミュニケーションデザインをするための本」の冒頭の「刊行によせて」で電通の杉山恒太郎氏が、「コミュニケーションデザイン」という言葉はロンドンから学んだ、という趣旨のことを書いています。
電通は今年7月の組織改変で、その杉山氏を責任者とする「コミュニケーションデザインセンター」という名称の、トータルプランニングを行う戦略性の高いセクションを作りました。これはひょっとすると、デジタルの時代でありながら、デジタルを道具として使いこなし、むしろクリエイティビティを重視するといった、ロンドンの広告業界のエッセンスのようなものにヒントを受けているのかも知れません。
そこでこの本に戻りますが、この本を執筆するきっかけとなる次のようなせぴソードが紹介されています。
「この本を書くにあたり、『広告の未来はどうなるのか』という観点で取材を始めた(中略)。ある程度の情報が集まり『電通vs.Google』という構図で原稿を書き始めたときのことだ。取材に訪れた渋谷の某ビルのエレベーターに乗っていたら途中階で扉が開き、高広伯彦滋賀乗り込んできた。(中略)一緒にエレベーターに乗っているわずか数十秒。その間に交わしたひと言ふた言が、取材の方向性を大きく変えてしまうことになる。『高広さん、今度の本の話だけど、電通vs.Googleという図式で書こうかなと思ってるんだ』『いや、今起こっていることは、そういうことじゃないんです。そんな話じゃないんですよ。どこかが覇権を握るかというレベルの話じゃないんです』 それだけだった。それだけ言って高広氏はエレベーターを降りていった。」(p206)
ということがあって、当初の予定「電通vs.Google」ではなくて、本書の内容になったということらしいのです。でもそんなことでひよったりしないで、是非当初の予定通り「電通vs.Google」を書いて欲しかった、と思います。
もちろんどこが覇権を握るか(←これもあきらかに広告メディア発想ですね)などというのはどうでもよくて、「テクノロジーの権化Google」vs.「デジタルにも手を打ちつつ、あえてクリエイティブで勝負を掛けてきた(かもしれない)、電通」という図式なら、今だったらば非常に面白いテーマなのではないかと思います。
最近のGoogleは、ストリートビューやグーグルマップでの個人情報流出問題など、テクノロジー万能主義が度を過ぎて、便利な反面人々に不安を投げかけるということが起きています。著作権関連の問題なども、欧州では解決していません。テクノロジーも進化すればよいのではなくて、社会との共存が必要なのは当然ですよね。そうした限界に少しぶつかりつつあるGoogleと、あえて人間臭い「クリエイティビティ」で再度勝負をかけてきた(ように見える)電通ということでは、まさに広告業界の未来を占う取材ができるのではいかと思うのです。
5.長くなってしまいました
軽く書くつもりで思わず長くなってしまいました。
別に著者を攻撃するつもりは毛頭ありません。また本書の「おわりに」で筆者はこういうことも書いていますが、
「最後に『クリエイティブの重要性は低下する』という私の主張に気分を害された広告業界関係者にお詫びしたい。(中略)広告のプロの方々の誇りを傷つけてしまったとしたら、やはり心苦しい。『部外者のお前に何がわかるものか』と気分を害された方もいらっしゃるだろう。」(p210)
別に気分を害されてもいないし、誇りを傷つけられているとも思いません。
筆者のような考え方は面白いと思いますし、いろいろな角度から広告業界の将来を考えることは有益だと思います。
その意味では、このブログを奇特にも最後まで読んでしまったみなさんも、一人ひとりが、自分の立場で広告の将来について考えて欲しいと思います。何を言っても広告業界が大きな変革期にあるのは間違いないのですから。
この本もみなさんなりの批判的視点を持って、是非読み込んでみてください。
☆湯川鶴章「次世代マーケティグプラットフォーム」(2008年)ソフトバンククリエイティブ
そういうこともあって、湯川氏の言動は普段から関心を持っているので、この本も期待を持って読み始めたのですが、読み終わった印象はというと... ちょっと微妙ですね。だいぶ違和感がありました。
「広告」について、ネット領域だけでなく、オフラインを含む全体的な領域で関わっている人にとっては、きっと私と似たような違和感を感じたのではないかと思うのです。
1.この本はどんな本?
まずこの本は、筆者がアメリカなどの取材に基づき「広告の近未来」のあり方を筆者なりにまとめた本、と言うことができると思います。結論的には「広告」の近未来のカタチは、私たちが今普通に「広告」と呼ぶものとはまったく異なるカタチのものになるだろうということが書いてあります。例えば以下のフレーズのように。
「取材を終えて確信に至ったのは、『広く告知する』を意味する20世紀型の広告はいずれ消滅するということだった。」(P7)
そして、近未来的なカタチの「広告」の具体例として、「アドマーケットプレイス」「行動ターゲティング広告」「デジタルサイネージ」「モバイル広告」などについて紹介しています。本書の題名が「次世代広告プラットフォーム」なっているように、「広告配信システム」のようなものが次世代の「広告」だ、という主張をしているのだと思いました。
2.違和感の理由は?
違和感を感じる大きな理由の一つは、その断言調にあるのですが、それは新聞記者の習いなのでしょうか? 無責任に煽っている感じがし、まずはその無責任さにちょっとカチンときます(失礼)。
さて、「広く告知をする」という20世紀型の広告の限界は、既に多くの人が知っていることであり、ネット上では既に広告配信技術が進化して、よりパーソナルな広告提供が可能になっているのも、周知の事実です。ただ、だからと言って「広く告知をするタイプ」の広告が「消滅する」と言うのは、単純に言いすぎだと思います。そんなことを言う人に会ったことがないですし、そう考える根拠は何なのでしょうか? 著作中にも明確に示されている場所はないように思います。
では何でそんな思考になってしまったのか? ちょっと思ったのが、筆者は「広告コンテンツ」と「広告メディア」をごちゃごちゃにしているからでは、ということでした。
どういうことかというと、近年よく言われている「メディアニュートラル」という言葉と関係あります。
メディアニュートラルの発想では、広告メッセージを最適な媒体(チャネル)を通じて消費者に届けるべきであり、その際、必ずしもマス広告を使う必要はないと考えます。これは別に変わったことを言っていないようですが、これまでの「広告」のあり方からするとかなり革新的な要素を含んでいるとも考えられます。
考えてみるとこれまでの「広告」は、そのメッセージ(表現)とそれを乗せる媒体とを同一視してきたと言えます。テレビCMはテレビCM、新聞広告は新聞広告であり、テレビCMを「動画表現+テレビ媒体」、新聞広告を「平面表現+新聞紙面」と考える人は、まぁあまりいなかったと思います。
ところが、メディアニュートラル発想では、広告コンテンツとメディアとを別々に考えます。別々に考えて、適切なメディアに適切な広告コンテンツを乗せていくわけです。そこではもはや「広告」とは呼べないような形のコミュニケーションもあり得るわけです。現実の企業コミュニケーションの主力は、今でも従来型のマス広告が多いのに変わりはないですが、多少なりともこれまでの広告のあり方に問題意識を持っている人は、今後はメディアニュートラル的な方向にどんどん進み、「広告」のカタチも変わっていかざるを得ないことを理解していると思います。
とすると、上記の引用文に続いて書いてある筆者の以下の文章はどうでしょう?
「企業から消費者に発するメッセージは、細かなターゲット層向けにいくつも用意され、受け手にとってよりパーソナライズされたものに変化していく。それは広告というより販売促進に近いコミュニケーションになり、クリエイティブよりテクノロジーが重要になるということだ。」(p7)
こういう認識を見ると、筆者は先ほど「広告コンテンツ」と「広告メディア」を分けたうちの、「広告メディア」の部分しか言及していないように思います。
他にも、この本では「技術革新の過渡期の推移」と題する、大きな円(中心)とそれを取り囲む外側の円(周縁)のモデル図を基に、技術革新は常に周縁から起きてきて中心を侵食するという紹介をしています。これを広告業界に当てはめて、中心の「マス広告」が、周縁であるアドテクノロジーに支えれられた「新しい形の広告」に侵食され、市場が縮小するという説明をしているのですが、ここで縮小するのはあくまで「広告メディア」でしょう。もちろんそれによって、既存の広告ビジネスが大きな影響を受けるのは間違いないですが、だからといって「広告コンテンツ」の必要性が弱まることの説明ができているとは思えません。
(ちなみに、「中心と周縁」という考え方は、かつて文化人類学を学んでいた私にとっては馴染みのある概念で、懐かしくなりました。関心のある人はコチラ参照)。
それとも「広告コンテンツ」、すなわちクリエイティビティやアイデアの部分においてもテクノロジーの重要性が増し、人間の想像力や創造力が関与する領域が次第に減少してくると言いたいのでしょうか?
あえて確信犯的に...?
それならば逆に筆者の革命家的指向性が読み取れてかえっていいのですが、そこまで確信性を持って語ってはいないような気がするのです。
3.クリエイティビティが不要?
いや仮に、クリエイティビティの重要性が低下し、変わってテクノロジーの重要性が増すと筆者が本当に考えているとしましょう。
実際にそういうことを言う人はいるものです。
例えばWEB広告において、クリエイティブ自体は素人が作るようなものでよく、それをたくさんの種類作り、実際に露出させてみてレスポンスの高いものだけを残していけば、それが優れたクリエイティブとなる、という考え方です。
これは「興味に対して露出させるタイプの広告」、つまり検索連動型広告やコンテンツマッチ型の広告などでは効率を上げる手法として成立つかもしれません。しかしこの方法が、現実の広告主のニーズに応えきれるかというとそうではないでしょう。新製品告知などニュース性が必要なタイプのコミュニケーション課題には適しているとはいえませんから。つまり現状のコミュニケーションビジネスにおける「クリエイティブ」の機能を補完するものであっても、代替できるものではないのです。
一方で、次世代広告におけるクリエイティビティに関して、次のような意見もあります。
例えば最近行われたデジタルアドの祭典、AD Tech NYで語られた、デジタル時代でもクリエイティブアイデアが重要だ、との記事を、あの「テレビCM崩壊」の訳者である織田浩一氏が伝えています。
また、その前に行われたロンドンのAD Techの紹介記事では、ロンドンの広告業界の話として、次のようなコメントが載せられています。曰く、「メディアやメーカーなどのマーケッターの間では、テクノロジはあくまで戦略要素でしかないという認識が形成されている」。
むしろ、デジタル先進国のアメリカ、イギリスなどでも「戦略性の高いクリエイティブ」というものの重要性が認識・共有されているということなのではないでしょうか?
4.電通vsGoogleの方が見たかった!
ロンドンと言えば、前々回紹介した「コミュニケーションデザインをするための本」の冒頭の「刊行によせて」で電通の杉山恒太郎氏が、「コミュニケーションデザイン」という言葉はロンドンから学んだ、という趣旨のことを書いています。
電通は今年7月の組織改変で、その杉山氏を責任者とする「コミュニケーションデザインセンター」という名称の、トータルプランニングを行う戦略性の高いセクションを作りました。これはひょっとすると、デジタルの時代でありながら、デジタルを道具として使いこなし、むしろクリエイティビティを重視するといった、ロンドンの広告業界のエッセンスのようなものにヒントを受けているのかも知れません。
そこでこの本に戻りますが、この本を執筆するきっかけとなる次のようなせぴソードが紹介されています。
「この本を書くにあたり、『広告の未来はどうなるのか』という観点で取材を始めた(中略)。ある程度の情報が集まり『電通vs.Google』という構図で原稿を書き始めたときのことだ。取材に訪れた渋谷の某ビルのエレベーターに乗っていたら途中階で扉が開き、高広伯彦滋賀乗り込んできた。(中略)一緒にエレベーターに乗っているわずか数十秒。その間に交わしたひと言ふた言が、取材の方向性を大きく変えてしまうことになる。『高広さん、今度の本の話だけど、電通vs.Googleという図式で書こうかなと思ってるんだ』『いや、今起こっていることは、そういうことじゃないんです。そんな話じゃないんですよ。どこかが覇権を握るかというレベルの話じゃないんです』 それだけだった。それだけ言って高広氏はエレベーターを降りていった。」(p206)
ということがあって、当初の予定「電通vs.Google」ではなくて、本書の内容になったということらしいのです。でもそんなことでひよったりしないで、是非当初の予定通り「電通vs.Google」を書いて欲しかった、と思います。
もちろんどこが覇権を握るか(←これもあきらかに広告メディア発想ですね)などというのはどうでもよくて、「テクノロジーの権化Google」vs.「デジタルにも手を打ちつつ、あえてクリエイティブで勝負を掛けてきた(かもしれない)、電通」という図式なら、今だったらば非常に面白いテーマなのではないかと思います。
最近のGoogleは、ストリートビューやグーグルマップでの個人情報流出問題など、テクノロジー万能主義が度を過ぎて、便利な反面人々に不安を投げかけるということが起きています。著作権関連の問題なども、欧州では解決していません。テクノロジーも進化すればよいのではなくて、社会との共存が必要なのは当然ですよね。そうした限界に少しぶつかりつつあるGoogleと、あえて人間臭い「クリエイティビティ」で再度勝負をかけてきた(ように見える)電通ということでは、まさに広告業界の未来を占う取材ができるのではいかと思うのです。
5.長くなってしまいました
軽く書くつもりで思わず長くなってしまいました。
別に著者を攻撃するつもりは毛頭ありません。また本書の「おわりに」で筆者はこういうことも書いていますが、
「最後に『クリエイティブの重要性は低下する』という私の主張に気分を害された広告業界関係者にお詫びしたい。(中略)広告のプロの方々の誇りを傷つけてしまったとしたら、やはり心苦しい。『部外者のお前に何がわかるものか』と気分を害された方もいらっしゃるだろう。」(p210)
別に気分を害されてもいないし、誇りを傷つけられているとも思いません。
筆者のような考え方は面白いと思いますし、いろいろな角度から広告業界の将来を考えることは有益だと思います。
その意味では、このブログを奇特にも最後まで読んでしまったみなさんも、一人ひとりが、自分の立場で広告の将来について考えて欲しいと思います。何を言っても広告業界が大きな変革期にあるのは間違いないのですから。
この本もみなさんなりの批判的視点を持って、是非読み込んでみてください。
☆湯川鶴章「次世代マーケティグプラットフォーム」(2008年)ソフトバンククリエイティブ