広告業界に就職する前、まだ学生の頃私は「広告代理店」というものは「世の中に『ブーム』を仕掛け、それを裏で操る黒幕」というイメージがありました。ちょうど糸井重里や川崎徹などをはじめとしたクリエイターが活躍していた時代でした(注:2人は著名なコピーライターとCMディレクターです)。バブル景気で沸く世の中を裏で演出する―「広告代理店」というものに対してそんな一種の神秘性を感じていました。
 就職して内部の人間になると、すぐそんなことは幻想だと気づきました。仕事は地味でしたし、ブームを作るなんていうことより、明日提案する企画書を何とか仕上げる、というようなことの方がずっと大ごとでした。
 しかし、自分の手でブームを仕掛け世の中を動かしたい、というのはこの業界で働く人が共通して持つ「夢」ではないでしょうか。クライアントあっての広告会社ですから、クライアントとの良き出会いがなければ、なかなかそれができないし、出会いがあったとしてもその方法がわからないというのが実情だと思います。

 今回紹介する本は、その「ブーム」を生み出す道筋を大胆にも提示した本です。いや、著者はそれを説明したくてこの本を著したのではないのかもしれませんが、私はそう思いましたし、そこに一番のユニークさを感じました。

 最初にこの本を見たときには、何だ?と思いました。本の題が「ブランド・ハイジャック」、副題が「マーケティングしないマーケティング」となっています(原題同じ)。大体、今時("9.11"以降)本のタイトルとして「ハイジャック」という言葉をセンセーショナルに使うこと自体見識を疑いましたし、「マーケティングしないマーケティング」というのも、最近ありきたりのポストモダンマーケティング論の一種かな、と感じてしまいました。
 それでも読んだのは単に新刊だったからですが、よい意味で期待が裏切られました。著者は現状のマーケティングの課題などをよく考えているし、ブランドのカルトなファンを作るためにカルト教団に学ぶなど、視野も広めです。それでいて実務的な内容であり、少なくとも私はこれから仕事をする上で考えさせられることが大でした。

 どんな内容かというと――この本、内容もさることながら、最後にある「訳者あとがき」がとてもよく、本書の言いたいことが簡潔に要約してあるので、まずこれを読んでから本文を読み始めたほうが理解が早いと思います。そこから引用します。

 「この副題はちょっと誤解をまねくもので、原著者も本書の冒頭で明らかにしている通り、ハイジャック・ブランドづくりは、『マーケティングなきマーケティング』では毛頭なく、むしろ緻密な計画に基づいたもの。思い切って市場や消費者の手にブランドを委ねてしまい、成り行きに応じて計画をどんどん変えていく柔軟性を持ち、しかし頃合を見計らって、従来のマス・マーケティングに切り替えて大型ブランドに育て上げていく、という新しい手法です。ちょっと不安に思えるかもしれませんが、今日の人気急上昇ブランドの多くが従来のマーケティングの常識に当てはまらないことを考えると、たしかに卓見かもしれません。」(p340)
 「(中略)先行した草の根マーケティング、ゲリラ・マーケティングとはまったく違うものです。」(p342)


 そうなんです。確かに著者の主張は新しい提案であり、卓見だと思うのです。

 著者の主張をまとめると次のようになると思います。

 ・現代の成功ブランドは正統的マーケティング手法ではなく、絡め手から攻めて来たものが多い。
 ・マーケティングを見透かして単純に受け入れないような、現代の市場にどうやってマーケティングするかが課題だ。
 ・ブランディングの主導権は消費者に移っており、情熱的な無数の人々が大ヒットを後押ししている。この現象を「ブランド・ハイジャック」と呼ぶ。
 ・これらの消費者は、企業のマーケティングのためにタダ働きするのではない。ある種のブランドビジョンに共感し、それにもっと深く関わりたいから自主的に行動すし、それがブランドを成功に導くのだ。


 そしてブランドが共感する消費者により「ハイジャック」され最終的に大ブームになっていく、というストーリーをたどるようにするための戦略的な道筋を、さまざまな事例――レッドブル(欧米の健康ドリンク)、ブレア・ウィッチ・プロジェクト(映画)、パーム、iPodなどの事例を紹介しつつ論じています。
 さらに筆者は、こうした手法は予算の少ない中小企業が予算が少ないことを逆手に取って行うゲリラマーケティング的なものではなく、大企業・大ブランドも応用できるものであるとも主張しています。

 今日本でも注目されている「バズマーケティング」に対しても、こんな意見です。正論だと思います。

 「バズについてはさんざん語られているが、これはマーケティングの中で最も誤解されている概念だ。たいていのマーケターは、バズを戦術やツールの一つとしか考えていない。しかしバズとは何らかの結果であり、方法ではない。」(p274)

 また、著者はブランドが大ヒット化するためには、初期の段階で適切なイノベーターやアーリー・アドプターに受容・共感されることが重要であると説いているのですが、それに失敗した事例として面白い例を紹介しているので紹介します。

 「ベータマックスを覚えているだろうか? これはVHSよりずっと優れた技術だった。だがVHSが標準になったのは、いまや伝説になっているように、アーリー市場としてのポルノ産業を理解していたからだった。VHS陣営は、ほとんどあらゆるメディアにおいて、最初のコンテンツはたいていポルノであることを知っていたが、ソニーはこの点を見逃し、ポルノ業界にライセンスを開放しなかった。この判断がベータマックスの将来を封印した。初めてのセルビデオはアダルト映画だった。それはハリウッドより丸1年も早かった。70年代後半から80年代初頭にかけて、ビデオレンタルの5割以上がXレートものだった。この業界に権利を開放しなかったことで、ソニーは自分の脚を撃ち、アーリー層にVHSを買わせてしまったのだ。」(p270)

 ベータマックスに対してVHSがデファクトになった理由としては、いろいろ言われていると思うのでこれが決定的理由かどうか真相はわかりません。しかし、最初の段階で、普及のために適切な消費者グループを見方につけなくてはならない、ということが端的に分かる事例です。


 この本に書かれている通りにやったとしても、広告業界人の「夢」であった「ブームを生み出す」ことが容易に実現できるとは思いません。しかし、今日の市場・消費者環境の中で、それを生み出す方法論を曲がりなりにも整理したのは貴重ですし、実際のプランニングの現場にいる人ならば、きっと感じるものが何かあると思います。

 タイトルは一般向きですが、実務家が何かを感じる本だと思います。

☆アレックス・ウィッファース著、酒井泰介訳「ブランド・ハイジャック」(2005年)日経BP社
 
ブランド・ハイジャック~マーケティングしないマーケティング