ドン・シュルツといえば、アメリカのマーケティング関係のビジネススクールの最高峰と言われるケロッグスクールを擁するノースウエスタン大学の、もう一つの広告・ジャーナリズムを専門に教えるビジネススクールであるメディル校で世界最初のIMC学科を開設し(1991年)、IMC(統合マーケティングコミュニケーション)という概念を最初に提唱した教授として知られています。
 94年にドン・シュルツの書いた「広告革命米国に吹き荒れるIMC旋風」という本が日本で発刊され、「IMC」が一時ブームになりましたが、すぐ廃れてしまいました。「マス広告だけではなくて、それ以外のコミュニケーション手段もトータルで管理してやりなさい」という主張が、当時ほとんどマス媒体広告しかやらず、プロモーションその他が管轄外だったアメリカの大手広告代理店にとっては目新しかったかも知れませんが、昔からマス広告もプロモーションも両方やっていた日本の広告代理店にとっては、取り立てて新しい主張ではなかったからです。逆に当時は、何でもやる日本の広告代理店のサービス体制の先進性が認められた、などと理解する論調もあったくらいです。
 一度評価を下げた言葉の名誉挽回は難しいものです。「IMC」という概念と「ドン・シュルツ」という名前は、日本では大騒ぎした割には目新しくない概念、あるいはそれを言った人、ぐらいの理解しかされてこなかったのではないかと思います。
 最近こそ顧客接点論(コンタクトポイント/タッチポイント)への関心が高まり、統合的コミュニケーションの重要性が再び指摘されていますが、顧客接点論の「顧客とブランドとが出会う接点をすべて統合的・効果的にマネジメントしなさい」という主張は、日本でも既に理念から具体的実践のフェーズに移ってきています。
 今更ドン・シュルツが、何を言うのだろう? というのが読む前の正直な思いでした。

 しかし、読んで行くうちにその考えは完全に打ち消されました。これは以前のIMCの主張とは全く異なるものです。もちろん以前のコンセプトは受け継がれています。しかしそれは全体のほんの一部分であり、本書の主張はもっと包括的・野心的です。訳書だとわかりづらいのですが、原著のタイトルは“IMC: The Next Generation”となっており、明らかにマーケティング論全体に関わる新しいパラダイムの提案です。そして確かに、ここにはこれからのマーケティングに必要と考えられる要素がさまざまな形で詰め込まれています。それもわかりやすい形で。
 本書の帯に「P.コトラー推薦! 次世代に必要なマーケティングのテーマは本書にすべて書かれている」とありますが、決して大げさではありません。もっともすべての主張が新しいわけではありません。むしろ、これまで言われてきたマーケティングについての新しいコンセプトを、まさに「統合」した部分に本書の価値があるのかも知れません。今後マーケティングを語る上での基本文献になることは間違いないと思いますし、これから多くの人に大いに参照・引用される文献となるでしょう。

 さて、ではどこが新しいのでしょう? 私なりにまとめてみました。

1.顧客(ターゲット)は資産

 「企業には、顧客こそ本当の『資産』であると認識する必要がある。ほとんどの企業では、収入フローを最も活発にもたらしているのは顧客である。(中略)マーケターやコミュニケーション・マネージャーが『アセット・マネージャー』と自認することが特に重要である」(p60)
 「さまざまなタイプのマーケティングやコミュニケーションのプログラムを通じて、顧客への投資を実施する。その成果が、企業への収入フローとして現れる。これこそ顧客を資産として扱うことで生じる『ループ・システム』なのだ。」(p61)
 「企業が『資産』を利用する目的は、自社に売上げや利益をもたらすことにある。そして顧客も同じような存在だからこそ、『資産』として管理する必要があるのだ。」(p102)


 コミュニケーションコストを「投資」と考えるべきだ、という議論はしばしば行われます。しかし多くの場合、クライアントに広告費を出させるため、詭弁的に「広告効果は蓄積するから」程度のあまり深みのない理論的背景で論じられることが多かったのではないかと思います。
 こういう現状に忸怩たる思いを感じていたのは私だけはないと思います。会計上は経費であっても、きちんと「投資」として捉える理論的根拠が欲しい。そしてクライアントにもコミュニケーションコストの意義を納得して欲しい、というのは広告業界に籍を置く人間ならば誰もが感じる思いだと思います。そういう中で「顧客が資産」というコンセプトは魅力的です。つまり生産設備や店舗のように価値(キャッシュフロー)を生み出すものとして「顧客」があり、彼らに対する継続的な投資(つまりコミュニケーション活動)は、キャッシュを生む力を減じさせないための必要条件だ、と言えるわけです。これはマーケティングコミュニケーション上の新しいコンセプトとして面白いだけでなく、企業の経営層にコミュニケーションコストの必要性を感じさせるアナロジーとしても優れています。もちろんここで言う「顧客」とは、商品・サービスの実際のユーザーに限りません。潜在的な顧客も含みます。

 そして、資産への投資である以上、単にお金をかければいいということではなく、「効率よく投資をする」という視点が重要になってきます。それが上記に引用した「アセット・マネージャー」になれということでしょうし、次の2、3のポイントにつながってきます。

2.顧客行動をベースに顧客をグルーピングし、顧客の価値を定める

 「統合マーケティングは『セグメンテーション』というコンセプトを超えていく。つまり、市場における個々人の行動から、個人のグループを集約するのだ。(中略)たとえば、顧客や見込み客を、既存顧客、浮動顧客、新規顧客という3つの大まかなグループにまず分類する。既存顧客はすべて、単一のターゲットとして扱うが、いくつかのサブカテゴリ、たとえば『大量購入−高利益顧客』と『低頻度−低利益顧客』に分割して扱うことが可能だ。同じように、浮動顧客も競合へのロイヤルティが極めてて強い層や、競合からの乗換えを示唆する行動が見られる層、といったサブカテゴリに分割できる。」(p79-80)

 以前、このブログでも行動主義のターゲッティングを紹介したことがありますが、個性化が進み、ターゲッティングにおいてデモグラ(人口統計)でもサイコグラフィックでも分類が難しくなったと現代の消費者をうまく捉えるには、分類ではなくて類似した行動傾向によりグルーピングすることが有効だという考え方です。
 しかもここでユニークなのは、グルーピングされるターゲット(顧客)は「資産」であり、ターゲットへのコミュニケーションは「投資」であるから、どの資産にどれくらいどういう方法で投資をするのが、最もリターン(ROI)が良いか、という視点が前提としてあらかじめ組み込まれているということです。
 したがってターゲットグループを作る際には、デモグラ属性や態度など曖昧なものではなく、購入量や購入頻度など、財務的に投資効率を判断し得る尺度に基づいて行う必要があるというわけです。

3.顧客の財務的価値の測定

 投資効率(ROI)を判断できるように顧客をグルーピングする場合、当然グルーピングした顧客層それぞれの価値の大きさや、投資(コミュニケーション投資)に対するリターンの大きさが計算(測定)できていないといけません。計算するためには、計算方法(測定方法)のロジックがセットで必要です。
 本書ではこの課題に対して、投資活動により顧客から短期的に生み出される収益と、顧客の生涯価値(LTV)などに注目した、顧客から長期的に生み出される収益とを分けて捉える方法を提示し、さらにそれぞれの算出方法の考え方(ロジック)を例を挙げながら説明しています。
  もちろん、生身の人間の生み出す価値を測定するわけです。単純な手続きで計算ができるわけでもなく、本書の提案であっても、必ずしも納得できるものではないかも知れません。しかし、広告の効果測定の歴史において長らく無理と諦められていたROIの算出に、それなりに論理的なフレームをともなって真正面から取り組んでいるものであり、画期的なものであることに違いはありません。

4.顧客接点の捉え方
 
 「マーケターにとって、クリエイティブや、マーケターが何を言うかについての重要性は低下し、どこでどのようにそれを言うかのほうに、重点が移ってきたのである。」(p130)

 「顧客接点」(タッチポイント、コンタクトポイント)論の考え方ですね。すべての接点が重要で、それらを適切にマネジメントしなさいという指摘はもはや当たり前になっていますが、現代のマーケティングコミュニケーションにおいては、何を言うか(What to Say)より、どこでどう言うか(How to Say)の方がより重要だという指摘は、ユニークで真をついているような気がします。


 まとめると、「ブランドエクイティ」ではなく「カスタマーエクイティ」「顧客の態度変容」ではなく「顧客の行動変容」「コミュニケーション効果」ではなく「フィナンシャル効果」「What to Say」ではなく「How to Say」、というように、本書で提示された「統合マーケティング」の枠組みでは、新しいコンセプトがさまざまに提案されています。こうしたコンセプトは実務上どこまで使いこなせるかは別としても、われわれのクライアントが最近問題にしている事柄に応えうる要素をふんだんに含んでいます。同時に、従来さまざまに議論されてきたマーケティングコミュニケーション論の課題にも応えるものでもあり、マーケティングコミュニケーションの考え方と方法を、まさに21世紀版に導くものになっていると言えると思います。

 ところで最後になりますが、この本の訳について気になったことが一つだけあります。「タッチポイント」と訳出されている言葉の問題です。
 以前からこのブログでは、海外文献の用語やタイトルが、特定の企業の利害関係によって原著にそぐわない形で翻訳されることを問題視してきました。この本で「タッチポイント」と訳されている原著の言葉は、どうも“contact point”という言葉のようなのです。あえてそれを「タッチポイント」と訳したのは、訳者が「博報堂タッチポイント・プロジェクト」であり、「タッチポイント」が博報堂の、「コンタクトポイント」が電通のそれぞれ登録商標だからだと思うのですが、こういうのはもうやめていただければと思います。もちろんどっちの言葉を使っても厳密に間違いとはいえないでしょうし、博報堂の社員がこうした価値のある本を訳出した手間に比べれば、これくらいのこと目をつぶってもいいのではない? という人もいるかも知れません。しかしこれは重要な外国文献の翻訳であって、特定の会社のPR資料ではないはずです。価値のある文献であればあるほど、それはわれわれ日本語を母国語とする者の文化であり共有財産として捉えるべきものだとも思います。そこに企業の都合を持ち込むことは、企業の社会的責任(CSR)の観点からしても少々残念なことです。どうしてもコンタクトポイントという言葉を使いたくなければ、最初に断りを入れるとか、一般名称である「顧客接点」などの言い方を使う方法もあったと思います。重要文献となると思われるだけに、他の文献との関連で、日本人の読み手に後で混乱を生じさせる可能性もあります(例えば、他のケロッグスクールの教授が書いた本の訳本の中にはそのままコンタクトポイントとなっている訳本もあります)。

 大変すばらしい著作だし翻訳書だと思いますが、ちょっと後味の悪さが残りました。


☆ドン・シュルツ、ハイジ・シュルツ、博報堂タッチポイント・プロジェクト「ドン・シュルツの統合マーケティング」(2005年)ダイヤモンド社

 ドン・シュルツの統合マーケティング