広告代理店の現場からみた読書案内

広告・マーケティング関連の書籍を、広告業務の一線で働いている立場から紹介・書評します。

August 2008

 この本の帯にこんなことが書いてあります。

 茂木健一郎氏 絶賛!
 時代を突き動かす衝動のど真ん中に、「文化」の総合力を見る。卓越した論考は、現代における「マーケティングの新約聖書」と呼ぶべきにふさわしい。読め。感じろ。そして跳べ。日本人に大いなる勇気と希望を与えてくれる本が登場した。
(帯より)

 気恥ずかしくなってしまうような売り文句です。茂木氏は本気でそう思ってこの文を寄せたのでしょうか? 不思議です。しかし「マーケティングの新約聖書」ともなれば、これは読まないわけには行きません。

 ...ということで読み始めましたが、読んでいる途中、筆者の「思いの深さ」のようなものは伝わってくるのですが、言葉が空回りしている感じで、正直言って何が言いたいのかいまひとつよく分かりませんでした。

 「日本文化」を歴史的に紐解きそのユニークネスを語ったり、一般的な文化論を語ったり、「豊かさ」とは何かについて語ったり、「豊かさ」を取り戻そう! と叫んだり...。それを20世紀末にブームとなった「ポストモダン」思想家の言説、――例えば記号論とか、構造主義とか、現象学とかに当てはめたりして説明するわけです。その合間合間にマーケティングの話が出てきたりするわけですが。

 「マーケティングの新約聖書」? 言い過ぎでは?
 
 ただ、難しい言葉を使ってはいるものの、決して人を煙にまこうとする議論をしているわけではありません。筆者の問題意識は真摯であり、その意味では筆者の態度の誠実さは全編を通じて感じられるものです。

 では、要は何が言いたいのか?

 あとがきの文章を読んで、何となく分かった感じがしました。

 「私は、広告、ブランド研究が専門である。にもかかわらず、専門違いである私が蛮勇をふるって本書を執筆したのは、現在こそビジネス、教育において総合的な意味での『教養』が必要だという思いからである。」(p313)
 「単なる学術書でもなければノウハウ本でもない新しい形の教養書を出したい筆者のわがまま」(p315)


 なるほど。「教養」かぁ。考えてみれば我々の仕事の中では“欠けがち”なものですね。お得意様の課題に合わせて、新しい仕事を日々“こなすこと”を我々の仕事の形としてしまっている中で、何か足りないことがあるとは感じていました。「教養」というのはおかしな話ですがそれを埋めるピースかもしれません。

 そう思ってもう一度始めの部分を読んでみると、ちゃんと筆者の問題意識が書いてありました。

 「これまで『マーケティング』と『文化』は、実務と教養という相容れない領域であった。しかし、文化パワーが台頭する時代において、これまで水と油であった両者が融合し、新たな理論、思想が求められるようになった。ビジネスの世界にあって文化への理解とセンスが必要とされ、文化の世界にビジネス知識が求められているのである。言い換えれば、文化全般についての教養力がビジネスパワーへとつながる時代になったということである。(中略)本書は、これまで分断されてきた『マーケティング』と『文化』の間の架け橋となるものであり、新たなマーケティング原理としての『カルチュラル・マーケティング』を提唱するものである。」(p12)

 この発想には共感します。「商品を企画開発し、販売する」という広義のマーケティング活動を行う上で、売り手・買い手の背景にある文化を理解しようとするのは正しいことだと思うし、マーケターが文化を理解しようとする試みの中で、同じように「人間」「文化」を理解しようとしてきた歴史や美術史・社会学・心理学・人類学などの教養を身につけ、より深く人間や文化を理解すべきだという考え方も、これまで軽視されてきたように思いますが、重要なことでしょう。実践できるかどうかは別としても。

 「単純におざなりのアンケート調査やグルインをやっているばかりでは、薄っぺらな仕事しかできないよ。本当はもっと豊かな仕事があるのだよ」、と筆者は言いたいのかも知れません。

 筆者は、彼の提唱する「カルチュラル・マーケティング」の方法論として、いくつか具体的なやり方の提言もしています。それはこの本を手に取って皆さんそれぞれがご確認ください。納得できることも、疑問なこともあるかも知れませんが、批判的に理解して取り入れてみるというのは、最もふさわしい態度だと思います。

 この本がマーケティングの新約聖書がどうかは分かりませんが、筆者のような視点でのマーケティング研究はもっとなされていいと思います。その意味では筆者の試みを強く支持します。
 そしてできれば、筆者の言う「カルチュラル・マーケティング」について、理論だけではなく、それを活用した実際のケースも読んでみたいところです。また、私個人的にはアメリカで話題のCCT(Consumer culture Theory)と呼ばれる一連の実践研究に興味があるのですが、そうした研究動向との関連性についての議論も期待したいところです。

 問題提起にとどまらず、「実践篇」的な続編を期待しています。


☆青木貞茂『文化の力 カルチュラルマーケティングの方法』(2008年)NTT出版

文化の力――カルチュラル・マーケティングの方法 (NTT出版ライブラリーレゾナント 44)

 北京オリンピックの熱戦が続いているこの頃です。別に普段は何の関心もないスポーツ種目も、オリンピックでは日本人が出ているだけでなぜかテレビを見てしまいます。見ているうちに、そのスポーツにも興味が出てきて次第に引き込まれていったりします。そういう人は多いのではないでしょうか? そういえば、かつて冬季オリンピックで「カーリング」の日本チームが活躍してが急に注目を浴びたことがありました。
 まったく関心を持たれなかったのに、急に人気になる。場合によっては競技人口も増えてくる...。今回のオリンピックでもそんな競技が出てくるかもしれません。

 スポーツって不思議な力を持っていることを改めて感じさせられます。

 そういえば意識しなかったですけど、今回のオリンピックがらみに限らず、CMキャラクターとしてスポーツ選手が登場したり、スポーツをモチーフにしたCMというのは少なくないですよね。私たちの生活に何気にスポーツが入り込んでいる証でしょう。

 さて今回ご紹介する本も、前回に続いてスポーツマーケティングの本です。この本はアメリカのビジネスマネジメント向けに、さまざまなマーケティング課題に対して、彼らの意思決定・課題解決に参考になるケーススタディを、アメリカのスポーツにおける事例から抜き出してまとめたものです。
 その事例、というよりもエピソードに近いのですが、非常に豊富なのが特徴です。例えば前回紹介したアメリカのスポーツマーケティングに関する本が、過去のスポーツマーケティングにおける研究成果に基づいて何かを語ろうとしているのに対して、こちらはアメリカのあらゆるスポーツの事例をとにかく積み重ねて何かを語ろうとしており、前者が「スポーツマーケティング自体を語る本」であり、これは「スポーツでマーケティングを語る本」という視点の違いはありますが、対照的な本だと言えます。

 ところでちょっと話が飛びますが、北京オリンピックの中国つながりで言うと、今から約2500年前の春秋戦国時代、中国各地で「諸子百家」と呼ばれる思想家たちが現れ活躍しました。いわゆる孔子・孟子などの儒家、老子・荘子などの道家などです。彼らは各地の諸侯をまわって自らの思想を説き、その思想の実現と自らの“雇用”を図っていたわけでした。ここで「思想を説き」と書きましたが、これは今で言う「プレゼンテーション」に当るものだと思います。いや、かつては、採用されれば自らが宰相(首相)などの地位と権力を得るものであり、採用されなければ自らの命を落とすことさえあるものだったから、現代の「プレゼンテーション」という言葉からは想像できないくらいシビアなものだったと思います。

 さてその時代の「プレゼンテーション」では、どんな方法で諸侯を説得したのしょうか。当然今と違って「データ」のような客観情報はありません。ではどうしたかというと、どうも「事例」や「ケーススタディ」を素にして説得していたようなのです。
 史記などを読むと、よく「かつて○○では△△して成功し、××して滅亡した」などという言い回しで諸侯を説得している場面が出てきます。データなどのない時代ですから、2500年前から説得力を上げる方法として「過去の事例」というのが使われていたのですね。

 その意味では、この本も数千年の歴史の重みを持つ「事例による説得」という“術”を使って書かれた本の一つだといえます(別に皮肉って言っている訳ではなくて、北京オリンピックを見ながら読んでいたので、古代中国との接点を何か感じてしまったわけでした)。

 もちろん現代のプレゼンテーションでは、さすがに事例だけでは説得はできなません。データが基本だし、事例の事実関係もネットで検索すればいろいろなことがわかりますから、自説に都合のいいように事例を多少曲げて使ったりすることも難しい時代です。とはいっても、プレゼンテーションの最中に、適切な事例をさらっと言ったりすると説得力が高まる、ということは間違いなくあるでしょう。

 その意味で、アメリカのスポーツエピソード満載ですので、スポーツに興味があり、普段からスポーツネタを使ってプレゼンをしているような人には、ネタの仕入れとして、いいかも知れません。
 もっとも、題材はあくまでマイナーなものも含むアメリカのスポーツです。当然日本の読者を想定して書かれているわけではありません。せっかく仕入れて使ってみても、相手がピンとこない話の方が残念ながら多いかも知れませんが。

☆デビッド・M・カーター、ダレン・ロベル著、原田宗彦訳『アメリカ・スポーツビジネスに学ぶ経営戦略』(2006年)大修館書店

 アメリカ・スポーツビジネスに学ぶ経営戦略

 いよいよ北京オリンピックが始まりました。昨日行われた開会式をテレビでずっと見てましたが、凄かったですね。まさに中国の国威発揚の場であり、諸外国に対する中国PRの場とというのをビンビン感じました。

 何もかもスケールが大きく、もちろん演技・演出はすばらしかったと思いますが、過去あそこまで自国のPRを意識したオリンピックの開会式はあったのかと思うくらい露骨に「中国の素晴らしさ」をうたいあげていました。“One World, One Dream”という今回のオリンピックのスローガンに関わらず、“Our World, Our Dream”という方がふさわしいのではと思ったりしました。あとマスゲームには非常に多くの人が動員されていました。「人の数で勝負」というのも、どこに行っても人が多い中国らしい側面だと思いました。

 入場行進も参加国が過去最大だったせいもあるのか、だらだら長く、入場行進の脇で列になって手を上げたり下げたり踊っている中国人の若い女性スタッフの顔にも疲労がありありと見えました。私も最後の方は見ていてくたびれた開会式ではありました。

 そして、最後の聖火点灯。人がリフトでスタジアムの上まで吊り上げられ、なおかつそのままスタジアムを一周するという度肝を抜いた演出。「すごい」というよりも「安全面は大丈夫なのか?」「万が一聖火を落としたらどうするのか?」「風で聖火が消えないのか?」とかそんなことばかり気になりました。日本だったら企画の段階で「危険」の一言で却下されているでしょう。さすが雑技団を生んだ国、さすが人権意識がもう一つの国、と思ってしまいました。
 スタート以来世界中を騒がせ続けてきた今回の聖火リレーにふさわしい(?)お騒がせぶりでした。

 その最後の聖火ランナー。誰がやるのか話題になっていましたが、結局それを務めたのは、李寧氏。中国語で「Li-Ning」と発音します。ロサンゼルスオリンピックの金メダリストだとのことですが、「Li-Ning」といえば多くの中国人は「オリンピックのメダリスト」というよりも、スポーツウエアやスポーツシューズメーカーとしての「Li-Ning」を思い起こすに違いありません。
 この李寧(Li-Ning)社、李寧氏が起こした会社で、国産ブランドスポーツシューズで現在中国国内シェアNo1の会社だそうなのです。特に北京などでは、このブランドのロゴをつけたウエアや靴を着たり履いたりしている人をよく見かけます。
 その街で見かけるロゴがこれ。
Li-Ning logo


 あれ? と思った人いらっしゃるのでは。あのアメリカの有名スポーツメーカのロゴに何となく似てはいませんか?
 そしてそして、この会社のスローガンが「Anything is Possible(中国語:一切皆有可能)」。
 あれ? これはドイツの有名スポーツメーカーのスローガン「Impossible is Nothing」にどこか似ていませんか?

 もちろんLi-Ningブランドはニセモノではありませんし、「パクリ」をしたのでもないのかも知れません。
 しかし、オリジナリティとか自分の会社の製品に対するプライドのようなものはないのかな〜、と正直思います。スローガンも、アディダスの「Impossible is Nothing」の方には、一種の反骨精神のようなものを感じますが、「Anything is
Possible」からはそうしたものは感じられません。むしろ一種の「夜郎自大」主義さえ感じます。力があれば何をやってもよいというような思想にもつながりかねないような。

 こうした、有名なものを何でもかんでも取り入れて、見てくれを良くすればいい、だって力があれば何でもできるじゃないか? という姿勢と、自国でやるオリンピックなのだから自国のPRをどんどんやるのは当然、というような開会式のマスゲーム演出の考え方は、何か通じるものがあるように思います。「中国らしい」としか言いようのないそういう「何か」を、最後の聖火ランナーに李寧氏が登場した時に極め付けで見た思いがしました。

 もっとも、「フットペインティングによる絵の作成」だけは掛け値なしに素晴らしい演出だと私は思いました。みんなが何かを作る、というのがやはり美しいですよね。

このページのトップヘ