広告代理店の現場からみた読書案内

広告・マーケティング関連の書籍を、広告業務の一線で働いている立場から紹介・書評します。

September 2006

 話題の本です。今Googleで検索したら、268,000件(!)も出てきました(2006年9月10日現在)。ひょっとして発行部数より多いのではないでしょうか??

 それだけこのテーマ、つまり、マス広告批判や新しいマーケティングコミュニケーションの方法について関心が高い、ということなのだと思います。

 これだけみんなが読んでいる本となると、ここで特に書評する必要もなさそうですね...。内容については、とても“正しい”議論をしていると思います。アメリカの話ではありますが、日本にも当てはまる話です。現状の問題点の指摘はその通りだと思いますし、消費者の認識についても指摘の通りだと思います。
 強いて言えば、これらの議論は広告業界に身を置いて現状に危機感を持っている人なら誰でも共有している、特に新しくはない議論だとは思いますが。

 とはいえ、それを手際よく整理してのは筆者の力量です。正直言って、最初の方を読んでいたときには、当たり前に言われていることを大げさに語っているだけだし、説教臭くて気に入りませんでした。しかし、後半部分、「10のアプローチ」と題された、これからのマーケティングコミュニケーション方法を語っている部分に来たら、ポイントがとてもよくまとまっており、それなりによくできた本だ、という印象に変わりました。

 テレビCMの問題や新しいコミュニケーションの方法論などの問題に関心のある人ならば、頭が整理できますし、あまりよく知らなかった人ならば、啓発される本だと思います。
 誰が読んでもためになる本だと思います。

 それに筆者のこんなたとえ話も面白いですしね。

 「テレビCMが、その全盛期には時代の寵児であったことは間違いない。しかし、登場から65年を過ぎた今、それはまるでショーン・コネリーだ。つまり、今でもセクシーだが、これからの展望はあまりないということだ。」(p264)

 ワハハ。うまい!座布団一枚、というところですね。

 ところで、そういうことを前提にして、このブログ、書評を専門にやっているものですから、他の人とは違う視点で、批判的な話をしたいとも思います。それは著者へではなく、こうした本をありがたがる風潮に対してです。

1.広告に関心のある多くの読者に親切か?

 例えば、この本のカバーにこんな文句が書いてあります。

 「テレビCMは、質、信憑性、効果のどれをとっても最低だ。さらに最悪なのは、肝心の消費者が広告の何もかもをまったく気にしていないことである。」(カバーより)

 日本の話で言えば、現在のテレビCMビジネスで不合理なところ、おかしいところはたくさんあります。だから、それを批判することは正しい姿勢だと思うし、多くの広告主のためにもなることです。しかし、それが単なるアジテーションだったらどうでしょう? テレビCMを巡る本質的な問題点が隠蔽され、広告ビジネス全体にとっても何のメリットも与えません。
 この本はアメリカの話だから日本に単純に置き換えられないし、それをしようとすると誤解が生じて危険だと思うのですが、訳者・編集者はあえてそれをやろうとしているようです(訳者前書きにもその旨が書いてあります)。例えば、このブログでしばしば言及している邦訳書と原著タイトルとの意味の相違問題ですが、この本でも意図的に変更されています。原著は“Life After the 30-Second Spot”であり、テレビCMの問題点の指摘より、新しい広告コミュニケーションの方法論について主眼を置いているように感じられます。

 アジテーションも過ぎると、無責任と紙一重です。内容を鵜呑みにすることなく自分なりに消化できる人でなければ、この本のメッセージを正しく理解することができないような気がします。その意味では読み手の力量が問われますが、それは一方で、本として不親切だということも意味すると思うのです。

 知識や経験のない若者をミスリードしかねない、取り扱い危険な本にあえてしてしまった訳者・編集者の姿勢は疑問です。

2.新しい手法はショーン・コネリーを超えているのか?

 筆者は、これまでのマス広告の手法に変わる手段として、「10の新しいアプローチ」を提案しています。それは「インターネット」「ゲーム」「オンデマンド視聴」「体験型マーケティング」「長編コンテンツ」「コミュニケティ・マーケティング」「消費者作成コンテンツ」「検索」「Mで始まるマーケティングツール」「ブランデット・エンターテイメント」の10です。

 こんな言葉と共に紹介しています。

 「ここからは、テレビCMに代わる10の新しいアプローチを紹介したい。」(p112)

 こう言うと、上の例えではないですが、老いたショーン・コネリーに代わる主役級の役者が続々が登場している感じがします。
 しかし、実務に携わっている人ならすぐわかることですが、せいぜいインターネット、検索広告以外は、広告コミュニケーションの手段としては、まだまだ大部屋住まいの役者です。もちろん将来はあると思います。しかし、確実な未来はまったく約束されていないというのが現状だと思います。
 大部屋役者をショーン・コネリーに代わる役者として紹介するのですから、これも一種のミスリーディングではないでしょうか。

3.大切なのは手法なのか?

 さて、ここが一番言いたい点ですが、テレビCMの批判を始めると、クチコミをやろうとかバズを引き起こすのがいいとかライブマーケティングだとか、いつも「手法」の話に落ちていきます。この本のように、テレビCMは崩壊したから、インターネットなどの新しい手法をどんどん取り入れよう、という議論です。

 この議論は、何か大切なものを見落としているといつも思うのです。消費者から見れば、何となくテレビCM見なくなったなぁと思っていても、テレビCMの情報はもはや信頼できないと思っている人はほとんどいないと思います。つまり普通の人にとって、この本の議論は自分の生活に何の関係もないことです。要は、広告される商品・サービスが自分にとってどうなのかということだけが大切なのであって、それがテレビCMからの情報だろうが、ブログの情報だろうが、関係ないと思うのです。せいぜいその商品に関心を持ったときに、より詳しい情報にアクセスできるようであれば十分ではないのでしょうか。ということは、やはりとんなに環境が変化しても、基本に立ち返って消費者が望むような商品を市場に投入するのが企業の役割になると思うし、その際の広告の手法が何だというのに過度に気を取られるのは本末転倒だと思うのですよね。
 だから、この手の「手法」の議論を多くの人が面白がるのは何か不健全ですね。いい商品でなければ、どんなに頑張ったってそもそもクチコミなんか広がるわけがないのだから、いい商品を開発するなど、もっと大事なことに目を向けた方がずっと健全だと思います。
 つまりショーン・コネリーが演じようが、大部屋住まいの無名俳優が演じようが、大切なのは、ストーリーや演じられたものそのものではないか、ということです。

 もっとも、日本の民放も「コマーサル君のCM」なんていうくだらないお金の使い方しているから、CMの崩壊と言って面白がったりする変な風潮が広がってしまうのでしょうけどね。

☆Joseph Jaffe著、織田浩一監修、西脇千賀子、水野さより訳「テレビCMの崩壊」(2006年)翔泳社

テレビCM崩壊 マス広告の終焉と動き始めたマーケティング2.0

 仕事が忙しくて久々の更新になってしまいました。

 今回は「スポーツマーケティング」の本を取り上げます。

 スポーツと言えば、今年の最大の話題はなんと言ってもワールドカップ(W杯)でしたね。終わったのが2カ月前ですが、監督が代わったこともあって、遠い昔の出来事のような気がしてしまいます。

 サッカーの大きな大会が終わると(サッカーに限りませんが)、株の急騰する人と急落する人がいますよね。W杯ではジーコや中村俊輔の株が急落した感じがしました。「神」といわれたジーコの評判は今や既にありませんし、オシムジャパンに中村俊輔が呼ばれなくて、文句を言う人はもはや少数派でしょう。中田も株が下がったわけではないですが、引退してしまえばただの人、という感じです。
 オシムも監督就任時は、大きな期待を持って迎えられましたが、アジアカップ予選での不甲斐ない日本チームを見ると、「オシム株」もいつ暴落しないとは限りません。怖いですね。

 ところで、株が急落したジーコや中村俊輔とは異なり、W杯について、回を重ねるたびに急騰しているものがあります。さて何でしょうか?

ヒント:この金額です。
 1998年フランス大会 約240億円
 2002年日韓大会   約1,150億円(約5倍)
 2006年ドイツ大会  約1,400億円


答え:テレビ放映権料
 答えは大会の放映権料、つまりW杯の試合をテレビで放映するためにFIFA(世界サッカー連盟)に支払うお金です。
 98年までは、FIFAが「ワールドカップは公共放送優先」の方針、つまり世界中の人がサッカーを楽しめるように、とリーズナブルな価格で放映権を販売していたのですが、日韓大会からその方針を撤回、非常に高い価格で放映権を販売するようになったわけです。
 ちなみに、上記はFIFAが全世界に販売する放映権料ですが、日本での放映権料も高騰しています。
 1998年フランス大会 約7億円
 2002年日韓大会   約200億円(約78倍)
 2006年ドイツ大会  約150億円

 日韓大会は高かったかも知れませんが、ドイツ大会などあんな深夜の試合に、どうしてこんなに高い値段がついたのか、今となっては理解に苦しみます。

 フランス大会と日韓・ドイツ大会で、W杯自体に質的な変化があったとは思えません。変わったのはFIFAの考え方・やり方です。そしてはっきりしているのは、FIFAはW杯でもっと稼げるだけの価値があるはずだと考え、交渉の末、実際にそれをお金に変えてしまったということです。 

 ちなみに、こうした巨額の費用はテレビ局が、そしてその番組に提供する多くのスポンサーが分担して支払ことになるわけです。もちろん最終的には製品価格に転嫁され、われわれ一般の消費者が支払うことになります。

 その良し悪しについて意見のある方もいらっしゃるでしょう。でもとりあえずここではそれについてこれ以上触れないことにします。ただ、私が非常に興味深いと感じるのはスポーツビジネスのこうした面です。つまり、価値(価格)の曖昧なものが、やりようにより大きなカネを生むビジネスに変わる、という側面です。あるいはその実行方法です。スポンサーシップビジネス、と捉えてもいいかも知れません。

 今回紹介する、「図解スポーツマネジメント」という本は、スポーツチームやスポーツ団体を運営する側に立って、それをうまくマネジメントする方法について述べた本です。図を交えながら細部にわたるまで手際よく整理してあるので、スポーツ関連のビジネスを行っている人にとっては手元に置いておいて参考になる本なのだと思います。

 しかし、この本の中心テーマとは別に、先ほどの観点から、この本の中の以下の一文が、非常に私の印象に残りました。

 プロスポーツ・ビジネスは宝の山であり、活性化することによって金を生む権利が多く埋まっている。スポーツマーケターに必要なのは、アクティベート(注:権利の活性化)できる権利の鉱脈を発見し、それらを掘り出して活用する知恵と、ビジネス化するためのアイディアの創出力である。また、創出された権利は、チームやクラブの知的財産として保護されなければならない。ただし、権利の価値を増大するには、チームやクラブのブランド力の向上が不可欠で、価値のないブランドに大きな権利は発生しない。」(p72)

 スポーツビジネスの要諦はこの言葉に集約されのではないかと思いました。スポーツといえども、「ビジネス」という視点から考えれば、お金を生むことが究極的には求められるわけです。スポーツは単純にゲームの入場料収入だけが収益ではありません。放映権、肖像権、マーケティング権(スポンサーシップ)、商品化権など、さまざまな領域から収益を上げることができます。その際には、チームの「人気」というものが「ブランド力」と同じように、高い付加価値(多くのお金)を生み出す装置として機能します。だから「人気」という要素があって、そこにうまく鉱脈を探すことができれば、「打ち出の小槌」のごとくスポーツからまた新たに多くのお金を生み出すことも可能になるのです。

 こんなこと言ってはスポーツ選手に怒られてしまいそうですが、それでチームが潤い、ファンが満足するのならば、それはそれで間違っていないような気がします。

 こう考えると、スポーツというのはビジネスの対象として面白そうだと思いませんか? みなさん! 「宝の山」という言い方が魅力的ですよね。

 もっとも金脈としてカネを生む前段階としての、「人気」をいかにあげていくのか、というのが現在スポーツビジネスに携わっている多くの人の悩みなのかも知れませんが。

☆山下秋二、原田宗彦(編著)、中西純司、松岡宏高、冨田幸博、金山千広(著)「図解スポーツマネジメント」(2005年)大修館書店

図解 スポーツマネジメント

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