広告代理店の現場からみた読書案内

広告・マーケティング関連の書籍を、広告業務の一線で働いている立場から紹介・書評します。

 「統計学が最強の学問である」という挑発的なタイトルのこの本。だいたい「統計学」って小難しいし、それが最強!と言われても、「はぁ〜?、あなたは何と戦っているのですか?」という感じしか私は受けませんでした。
 ところが、なぜかこの本、意外と売れているようです。新聞広告にもどこどここの書店でペストセラーとありました。実際、身近な人で話題にする人も何人かいます。

 何か秘密がありそうです。

 実際に読んでみました。感想は、「読みやすくわかりやすかった」でした。。。

 広告の仕事の文脈で感じたことを書いてみたいと思います。広告の仕事の中でも、プランニングやマーケティングの仕事をしていれば、消費者調査などで統計的なデータを扱う仕事が必ずついて回ります。ところが私たち全てが大学で統計の勉強をしてきたような専門家ではありません。大学の授業で触れたことがあるという人でも、表面をかじっただけという場合が多いのではないでしょうか。まったく何の勉強もしてこなかったという人も少なくないはずです。一応、社会人になった後はOJTなどで少しは学ぶ機会があるかも知れません。とはいっても、データの集計方法や、せいぜい相関を見たりするぐらいでしょう。日々の仕事に追われる中で、統計学の最低限の知識すら学ぶことは少ないのではないかと思います。

 するとある日、こんなことが起こります。

Case1: 消費者調査の報告会で
 クライアント:「この数字、本当に差があるのか? 検定して確かめてくれよ!」
 私たち:「はい、わかりました。ではすぐ調べて報告します・・・(心の中で;『あれ〜、検定ってどうやるんだっけ? 調査会社に聞けば教えてくれるかなぁ〜』)

Case2: 消費者調査の企画打ち合わせで
 調査会社さん:「では今回の企画は実験計画法的なやり方でやろうと思います」
 私たち:「はぁ。そうですね・・・(心の中で;『実験計画法ってなんだ???』)

 なかなか立場上その場で「知らないんです」とは言いにくいものです。会社に帰って「さて、困ったな・・・」ということになってしまいます。

 もし上記のような経験をしたことがある人なら、この本はすぐに読むべきです(笑)。その価値はありそうな気がします。

 統計の基本を学ばなくっちゃなぁと思って入門書を買っても、ウェブで検索したりしてみても、数式(それも積分みたいな馴染みのないもの)が出てくると、挫折してしまうのが普通の人ではないかと思います。しかしこの本は主に「統計的なものの考え方」に焦点が当ててあるため、難しい数式はほとんど出てきません。一方で、知っておくべき重要な知識、例えば「p値」のような指標についてはキチンと解説してくれます。
 その他にもt検定、カイ2乗検定、回帰分析、ロジスティック回帰、実験計画法(ランダム化実験)なども紹介されており、これらの言葉を「聞いたことはあるけどよくわからないなぁ」というぐらいのレベルの人にとっては、この本から得られるものは多いと思います。(これらの言葉をまったく聞いたこともないような人は、やっぱり最初から最後までちんぷんかんぷんである恐れもありますが・・・)

 私自身にとっての収穫は、長年のナゾであった「ベイズ統計」という概念がようやくわかった(気になった?)ことかな。


☆西内啓「統計学が最強の学問である」(2013年)ダイヤモンド社

統計学が最強の学問である
統計学が最強の学問である [単行本(ソフトカバー)]

 この本にあった事例から・・・

 “義理のお母さんに招待された感謝祭のパーティ。とてもおいしいご馳走を振舞われて感謝の気持を表現したいと思った。
 おもむろに立ち上がって財布を取り出す。「お義母さん。この日のためにあなたが注いでくださった愛情に、いくらお支払いすればよろしいでしょう? 300ドルくらいでしょうか? いいえ400ドルはお支払いしないと。」”

 こんな会話があったらどうでしょう。その場にいた人はみな凍りついてしまいます。しかしお礼の気持として提示するものが「現金」でなくて「プレゼント」だったならば、価格は100ドルであっても周りの人からは賞賛され義母さんからも感謝されるでしょう。

 合理的に考えれば、お義母さんにとってお金をもらった方がいいはずです。お金はオールマイティに使えるわけですから。しかしこうした場で「お金による対価」に触れることは、よそよそしさを感じさせお義母を落胆させるでしょう。だから一般的にはしないわけです。

 筆者は主流の経済学では、人間は自分の利益を最大化するように行動する「合理的」存在と位置づけているとし、決してそんなことはないと異議を唱えています。ただ異議を唱えるのではなくて、人間行動が「必ずしも合理的でない」ことを実験で明らかにし、さらにそこに一定の規則性があることを発見します。さらにそれが一般化できれば、「不合理な行動を合理的に予測できる」ようになります。そうするとそれは科学となり、一般の社会現象に適用できるようになります。こうした学問分野を「行動経済学」と呼んでいるようです。実験を通じて行動パターンを一般化しようというアプローチは心理学にも似てますね。そして、この本は行動経済学の代表的な著作です。

 さて、この本の魅力は、こうした一見不合理だけど、考えてみれば「そうやってしまうよな」と思ってしまうような人間の行動について多くの事例を、実験結果と共に紹介しているところです。

 その中でも私は、上記で述べた「お金」に対する私たちの特別な意識や、お金で解決できない(=買えない)社会的な信頼性についての考察などが面白いと思いました。

 例えば、普段から仕事に貢献してくれている従業員に報いるのに、お金をあげるのがいいか、特別なプレゼントを提供した方がいいか? 普通に考えればお金ですが、プレゼントには会社や上司からの感謝のメッセージを込めやすく、引き続きそこで熱心に働いてもらうためのモチベーションを高めることができそうです。一方でお金をもらっても、その従業員は当然だと思っても会社や上司に感謝をすることなとはないような気がします。より高い給与を提示する会社があればそちらに転職する可能性もあります。一概にどちらがいいか判断はできませんが、すべてが「お金」によってスムーズに運ぶことばかりではないというのは、この本を読んで感じさせられました。

広告に関しても「仮想の所有意識」として、CMを見て擬似的に商品を所有すると(つまりクルマのCMを見てあたかも自分がそのクルマに乗ってどこかに行くような気持になると)、その商品に対して執着感が生まれる(だから広告として機能する)、というようなことを紹介しています。本当かどうかわかりませんが、覚えておくとプレゼンの時に役に立つかも知れませんね。

 いずれにせよ、人間行動に関して発見の多い本です。読みやすいものなので、行動経済学の入門書としてもどうぞ。

☆ダン アリエリー著、熊谷 淳子訳「予想どおりに不合理 行動経済学が明かす『あなたがそれを選ぶわけ』 増補版」(2010年)早川書房

予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 増補版
予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 増補版 [ペーパーバック]

思うところあって、ブログを再開してみようと思う。

思えば、最後に更新したのが2008年12月。今が2012年ですから、3年以上更新をサボっていた。

この間にいろいろあった。

リーマンショック。多くの仕事がキャンセルや中止になった。会社の業績がどん底に落ちた。

民主党の政権奪取。あの熱狂が今はうそのよう。もっとも今となっては、民主党政権にもだいぶウソをつかれているが。

そして先日の東日本大震災と福島原発の事故。悲惨な現実に接して、私たちの価値観がシェイクされた感じがします。観被災された方にはお見舞いを、不幸にして亡くなられた方には心からのお悔やみを申し上げたいと思います。

広告ビジネスもここ数年で大きな変革を迎えています。

特にその主役はソーシャルメディア。

これから(次回いつになるかわからないが...)、こうした新しい動きに焦点を当てて、書籍の紹介を通じつつ、広告ビジネスの新しい流れや今後の動向を考えてみたい。

 電通や博報堂クラスの広告会社からは、時々執筆者がその会社の社員、あるいはその会社内のプロジェクトであることを明記した本が出版されることがあります。
 内容は、その会社独自のマーケティング戦略の切り口提案だったり、コンシューマーに関する新しい捉え方の紹介だったりします。会社の名前が入った本である以上は、もちろんその会社のPR活動の一環としての出版ということになるのでしょう。

 しかしPR活動だからといって、宣伝臭かったり、独善的なものであったりするとは限りません。過去には非常に優れた、インサイトフルな内容の本がたくさん出版されてきました。例えば私が印象に残っているので言うと、大変古い話ですが、こうした本の先駆けとも言える、今から30年前に出版された博報堂生活総研の「分衆の誕生」「タウンウオッチング」などがその典型です。この本は実は私が広告業界を志望する上で大きな影響を受けた本でもありました。
 しかし一方では、あからさまな宣伝目的の本もあるわけです。今は、一定のお金を支払えば出版社から本を出してもらえる時代でもありますから。しばらく前に紹介した電通の「クロスイッチ」という本も、クロスメディア戦略の入門書として優れた本ではありますが、電通のプランニングシステムの紹介本であるという点ではその範疇に入るでしょう。

 ただ、いずれにしてもその出版がPR活動であるならば、その本は企業にとっての「自己紹介」「プレゼンテーション」でもあるわけで、クオリティが高ければ評価も高めるし、そうでなければかえって評判を落とすリスクがあるものだと言えます。

 今回紹介する「リアルヂカラ」を読んで、私は、正直これはちょっと「リスクのある方」だったのかな、と思ってしまいました。

 「リアルヂカラ」というネーミングは秀逸なものです。ちょっと前に流行った「目ヂカラ」という言葉から取ったのでしょうか? これだけバーチャルなものが持てはやされている時代にあえて「リアル」で勝負をかけるという着眼点はいいし、デザイン系の人たちが執筆者ということもあるのか、中身のデザインもクールです。

 しかし肝心の内容の方は、たとえ宣伝本だとしても、着眼点がよいだけに、「もう少し頑張って欲しかった」というのが正直な感想です。

 まず、考えれば分かる当たり前のことしか書いてないような気がします。例えば、

 「そもそも実体験領域の施策は圧倒的な情報力を持っています。空間、音楽、映像、素材など五感を刺激するすべての要素がそこにあります。さらに実体験の場では人的な接触や、同時に体験している人々の反応までもが体験要素となります。実体験領域では、一方向的で限られた時間スペースの中で情報を凝縮して発信するマス宣伝や、モニター画面だけで情報の受発信が行われるインターネット情報とは比較にならないほどの情報が発信され、実体験という形で生活者につよいインパクトを与えています。」(p5)

 と、さもすごい発見のような書き方をしていますが、既に誰でも知っていることではないでしょうか? 「実体験」が重要だから、どの企業も店頭を大切にしたり、ショールームを設置したりするわけですよね? 新しい話ではないわけです。むしろこの領域の課題は、「実体験ができる施設」への誘客だったり、そこを情報発信源にした情報の拡散だったりすると思うのですが、この本にはあまりそうした点が触れられていません。おまけに、今日ではインターネットを通じた体験も重要な“実体験”なのだと思いますが、上記ではそれを過小評価するような書き方さえされています。
 
 また、冒頭には「リアルヂカラ」という言葉の定義が次のように記されています。

 「『リアルヂカラ』とは、イベント、コンベンション、店舗、ショールームなどブランドと生活者がリアルに接触できるタッチポイントが持っているコミュニケーション力を指している言葉」(p3)

 しかし少し突っ込むと、実は最大の「実体験」はそのブランドの使用・利用体験なのではないでしょうか? 例えばそれは次のブランドの購入(リピート購入)に決定的に大きな影響を与えます。ところが、この本では「リアル」が大切だといいつつ、そうしたブランド使用・利用体験についての役割に関する記述が見当たりません。この点は大きな疑問です。

 あとは、紹介されている事例も掘り下げ方が不十分かな、とか、最後に載っている自転車の架空のケーススタディに関しては、まったく普通の商品キャンペーンケースと変わらないんじゃないなか、とかいう印象も受けました。この本の帯には建築家の隈研吾氏が顔写真入りで登場し、「この本は建築と広告の境界線上にある。」と言ってますが、隈氏、絶対この本読んでないな、読んでいてこんなコメント出すのだったら、よほど目が節穴か、お金を積まれているかのどちらかに違いない、などと意地悪にも私は思ってしまいました。

 と、批判めいたことを書いてしまいましたが、このブログは良いものは良い、良くないものは良くない、というのがモットーですから(あくまで私の視点でですが...)、気分を害された方いらっしゃったらご勘弁ください。。。


 さて、最初に書いたテーマ「企業の宣伝本」としてリスクがあるのではないか、ということについてですが、このエントリでこのテーマを書こうと思ったのは、次ことを感じたからでした。

 博報堂の場合、今回紹介した本と類似したテーマについて過去書かれた本として「ライブマーケティング」という良書があります。しかし、この本ではまったく「ライブマーケティング」について触れていません。これは博報堂に何かを期待して両方読んだ人からすると、同じ博報堂の本なのに「ライブ」と「リアル」は何が違うのか? あるいは同じなのか? などと混乱してしまうでしょう。
 また、博報堂はブランディングに関しても過去多くの本を出していて、最近では「エンゲージメントリング」という概念をよく紹介しています。しかし、その概念との関係についても何も触れないばかりか、まったく独自のブランディングメソッドを提唱しています。
 つまり、過去に博報堂からいくつも出版された似たようなテーマの本と、この本はまったく連携がないため、それぞれの本が勝手なことを言い合っている、という印象を読者に持たせてしまう恐れが少なくないのです。
 これではいろいろな本を出しているのに、「博報堂は、こんな概念を大切に考えいて、こういうサービスを広告主に提供したいと思っている」ということが、かえって分かりにくくなります。広告会社のプレゼンテーションで、マーケとクリエイティブの言っていることが互いに関係のないことを言っているため、プレがしらけるということと似ています。企業PRが目的のはずなのに、その目的とは反対の方向に進んでいるように思うのです。

 せっかく手間をかけて出版する本なのに、それではもったいないでしょう。
 本当は企業の広報なりの部署が、ある程度内容をコントロールするのがいいのかも知れませんが(一種のブランディング!)、現実的には難しいのでしょうか。

 「宣伝本」の出版というのも良し悪しなものだ、と今回は思いました。

☆博報堂エクスペリエンスデザイン編「リアルヂカラ」(2008年)弘文堂
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 著者の湯川氏は、時事通信社の編集委員で、広告・メディア関連の話題を積極的に発信されている方です。今の広告業界のキーワードの一つである「アドテクノロジー」と言う言葉を、私は湯川氏が数年前に主催したセミナーから知ったりしました。(その時のセミナーの内容がまとめられて「次世代広告テクノロジー」という題名で出版されています。)
 そういうこともあって、湯川氏の言動は普段から関心を持っているので、この本も期待を持って読み始めたのですが、読み終わった印象はというと... ちょっと微妙ですね。だいぶ違和感がありました。

 「広告」について、ネット領域だけでなく、オフラインを含む全体的な領域で関わっている人にとっては、きっと私と似たような違和感を感じたのではないかと思うのです。

1.この本はどんな本?

 まずこの本は、筆者がアメリカなどの取材に基づき「広告の近未来」のあり方を筆者なりにまとめた本、と言うことができると思います。結論的には「広告」の近未来のカタチは、私たちが今普通に「広告」と呼ぶものとはまったく異なるカタチのものになるだろうということが書いてあります。例えば以下のフレーズのように。

 「取材を終えて確信に至ったのは、『広く告知する』を意味する20世紀型の広告はいずれ消滅するということだった。」(P7) 

 そして、近未来的なカタチの「広告」の具体例として、「アドマーケットプレイス」「行動ターゲティング広告」「デジタルサイネージ」「モバイル広告」などについて紹介しています。本書の題名が「次世代広告プラットフォーム」なっているように、「広告配信システム」のようなものが次世代の「広告」だ、という主張をしているのだと思いました。

2.違和感の理由は?

 違和感を感じる大きな理由の一つは、その断言調にあるのですが、それは新聞記者の習いなのでしょうか? 無責任に煽っている感じがし、まずはその無責任さにちょっとカチンときます(失礼)。

 さて、「広く告知をする」という20世紀型の広告の限界は、既に多くの人が知っていることであり、ネット上では既に広告配信技術が進化して、よりパーソナルな広告提供が可能になっているのも、周知の事実です。ただ、だからと言って「広く告知をするタイプ」の広告が「消滅する」と言うのは、単純に言いすぎだと思います。そんなことを言う人に会ったことがないですし、そう考える根拠は何なのでしょうか? 著作中にも明確に示されている場所はないように思います。

 では何でそんな思考になってしまったのか? ちょっと思ったのが、筆者は「広告コンテンツ」と「広告メディア」をごちゃごちゃにしているからでは、ということでした。
 どういうことかというと、近年よく言われている「メディアニュートラル」という言葉と関係あります。
 メディアニュートラルの発想では、広告メッセージを最適な媒体(チャネル)を通じて消費者に届けるべきであり、その際、必ずしもマス広告を使う必要はないと考えます。これは別に変わったことを言っていないようですが、これまでの「広告」のあり方からするとかなり革新的な要素を含んでいるとも考えられます。
 考えてみるとこれまでの「広告」は、そのメッセージ(表現)とそれを乗せる媒体とを同一視してきたと言えます。テレビCMはテレビCM、新聞広告は新聞広告であり、テレビCMを「動画表現+テレビ媒体」、新聞広告を「平面表現+新聞紙面」と考える人は、まぁあまりいなかったと思います。
 ところが、メディアニュートラル発想では、広告コンテンツとメディアとを別々に考えます。別々に考えて、適切なメディアに適切な広告コンテンツを乗せていくわけです。そこではもはや「広告」とは呼べないような形のコミュニケーションもあり得るわけです。現実の企業コミュニケーションの主力は、今でも従来型のマス広告が多いのに変わりはないですが、多少なりともこれまでの広告のあり方に問題意識を持っている人は、今後はメディアニュートラル的な方向にどんどん進み、「広告」のカタチも変わっていかざるを得ないことを理解していると思います。

 とすると、上記の引用文に続いて書いてある筆者の以下の文章はどうでしょう?

 「企業から消費者に発するメッセージは、細かなターゲット層向けにいくつも用意され、受け手にとってよりパーソナライズされたものに変化していく。それは広告というより販売促進に近いコミュニケーションになり、クリエイティブよりテクノロジーが重要になるということだ。」(p7)

 こういう認識を見ると、筆者は先ほど「広告コンテンツ」と「広告メディア」を分けたうちの、「広告メディア」の部分しか言及していないように思います。

 他にも、この本では「技術革新の過渡期の推移」と題する、大きな円(中心)とそれを取り囲む外側の円(周縁)のモデル図を基に、技術革新は常に周縁から起きてきて中心を侵食するという紹介をしています。これを広告業界に当てはめて、中心の「マス広告」が、周縁であるアドテクノロジーに支えれられた「新しい形の広告」に侵食され、市場が縮小するという説明をしているのですが、ここで縮小するのはあくまで「広告メディア」でしょう。もちろんそれによって、既存の広告ビジネスが大きな影響を受けるのは間違いないですが、だからといって「広告コンテンツ」の必要性が弱まることの説明ができているとは思えません。
(ちなみに、「中心と周縁」という考え方は、かつて文化人類学を学んでいた私にとっては馴染みのある概念で、懐かしくなりました。関心のある人はコチラ参照)。

 それとも「広告コンテンツ」、すなわちクリエイティビティやアイデアの部分においてもテクノロジーの重要性が増し、人間の想像力や創造力が関与する領域が次第に減少してくると言いたいのでしょうか?

 あえて確信犯的に...? 
 それならば逆に筆者の革命家的指向性が読み取れてかえっていいのですが、そこまで確信性を持って語ってはいないような気がするのです。

3.クリエイティビティが不要?

 いや仮に、クリエイティビティの重要性が低下し、変わってテクノロジーの重要性が増すと筆者が本当に考えているとしましょう。

 実際にそういうことを言う人はいるものです。

 例えばWEB広告において、クリエイティブ自体は素人が作るようなものでよく、それをたくさんの種類作り、実際に露出させてみてレスポンスの高いものだけを残していけば、それが優れたクリエイティブとなる、という考え方です。
 これは「興味に対して露出させるタイプの広告」、つまり検索連動型広告やコンテンツマッチ型の広告などでは効率を上げる手法として成立つかもしれません。しかしこの方法が、現実の広告主のニーズに応えきれるかというとそうではないでしょう。新製品告知などニュース性が必要なタイプのコミュニケーション課題には適しているとはいえませんから。つまり現状のコミュニケーションビジネスにおける「クリエイティブ」の機能を補完するものであっても、代替できるものではないのです。

 一方で、次世代広告におけるクリエイティビティに関して、次のような意見もあります。

 例えば最近行われたデジタルアドの祭典、AD Tech NYで語られた、デジタル時代でもクリエイティブアイデアが重要だ、との記事を、あの「テレビCM崩壊」の訳者である織田浩一氏が伝えています。

 また、その前に行われたロンドンのAD Techの紹介記事では、ロンドンの広告業界の話として、次のようなコメントが載せられています。曰く、「メディアやメーカーなどのマーケッターの間では、テクノロジはあくまで戦略要素でしかないという認識が形成されている」。

 むしろ、デジタル先進国のアメリカ、イギリスなどでも「戦略性の高いクリエイティブ」というものの重要性が認識・共有されているということなのではないでしょうか?

4.電通vsGoogleの方が見たかった!

 ロンドンと言えば、前々回紹介した「コミュニケーションデザインをするための本」の冒頭の「刊行によせて」で電通の杉山恒太郎氏が、「コミュニケーションデザイン」という言葉はロンドンから学んだ、という趣旨のことを書いています。

 電通は今年7月の組織改変で、その杉山氏を責任者とする「コミュニケーションデザインセンター」という名称の、トータルプランニングを行う戦略性の高いセクションを作りました。これはひょっとすると、デジタルの時代でありながら、デジタルを道具として使いこなし、むしろクリエイティビティを重視するといった、ロンドンの広告業界のエッセンスのようなものにヒントを受けているのかも知れません。

 そこでこの本に戻りますが、この本を執筆するきっかけとなる次のようなせぴソードが紹介されています。

 「この本を書くにあたり、『広告の未来はどうなるのか』という観点で取材を始めた(中略)。ある程度の情報が集まり『電通vs.Google』という構図で原稿を書き始めたときのことだ。取材に訪れた渋谷の某ビルのエレベーターに乗っていたら途中階で扉が開き、高広伯彦滋賀乗り込んできた。(中略)一緒にエレベーターに乗っているわずか数十秒。その間に交わしたひと言ふた言が、取材の方向性を大きく変えてしまうことになる。『高広さん、今度の本の話だけど、電通vs.Googleという図式で書こうかなと思ってるんだ』『いや、今起こっていることは、そういうことじゃないんです。そんな話じゃないんですよ。どこかが覇権を握るかというレベルの話じゃないんです』 それだけだった。それだけ言って高広氏はエレベーターを降りていった。」(p206)

 ということがあって、当初の予定「電通vs.Google」ではなくて、本書の内容になったということらしいのです。でもそんなことでひよったりしないで、是非当初の予定通り「電通vs.Google」を書いて欲しかった、と思います。

 もちろんどこが覇権を握るか(←これもあきらかに広告メディア発想ですね)などというのはどうでもよくて、「テクノロジーの権化Google」vs.「デジタルにも手を打ちつつ、あえてクリエイティブで勝負を掛けてきた(かもしれない)、電通」という図式なら、今だったらば非常に面白いテーマなのではないかと思います。
最近のGoogleは、ストリートビューやグーグルマップでの個人情報流出問題など、テクノロジー万能主義が度を過ぎて、便利な反面人々に不安を投げかけるということが起きています。著作権関連の問題なども、欧州では解決していません。テクノロジーも進化すればよいのではなくて、社会との共存が必要なのは当然ですよね。そうした限界に少しぶつかりつつあるGoogleと、あえて人間臭い「クリエイティビティ」で再度勝負をかけてきた(ように見える)電通ということでは、まさに広告業界の未来を占う取材ができるのではいかと思うのです。

5.長くなってしまいました

 軽く書くつもりで思わず長くなってしまいました。
 
 別に著者を攻撃するつもりは毛頭ありません。また本書の「おわりに」で筆者はこういうことも書いていますが、

 「最後に『クリエイティブの重要性は低下する』という私の主張に気分を害された広告業界関係者にお詫びしたい。(中略)広告のプロの方々の誇りを傷つけてしまったとしたら、やはり心苦しい。『部外者のお前に何がわかるものか』と気分を害された方もいらっしゃるだろう。」
(p210)

 別に気分を害されてもいないし、誇りを傷つけられているとも思いません。

 筆者のような考え方は面白いと思いますし、いろいろな角度から広告業界の将来を考えることは有益だと思います。

 その意味では、このブログを奇特にも最後まで読んでしまったみなさんも、一人ひとりが、自分の立場で広告の将来について考えて欲しいと思います。何を言っても広告業界が大きな変革期にあるのは間違いないのですから。

 この本もみなさんなりの批判的視点を持って、是非読み込んでみてください。


☆湯川鶴章「次世代マーケティグプラットフォーム」(2008年)ソフトバンククリエイティブ
次世代マーケティングプラットフォーム 広告とマスメディアの地位を奪うもの

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